2022年5月31日
2022年5月18日
生け花とは何か?(1)
2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request
4 June 2022: Ikebana Introduction
10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library
18 June 2022: Ikebana Introduction
18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day
1 July 2022: 1000 Ikebana Challenge
31 August 2022: Ikebana Workshop at the Pub
10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky
https://www.ikebanafestival.com
10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com
2022年4月29日
新論文が掲載されました
生花道場に関する研究報告が出版されました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ikebana/9/0/9_19/_article
外国人に生け花を教えるのはなぜこうも難しいのだろうと、数年間考え続けてきたことが、ようやく形になったように感じます。
2022年3月25日
千日挿花行
千日挿花行を提案し、広報中です。
生花を一日一作、千日続けてもらおうというものです。モデルは千日回峰行。その命がけの厳しさの足元にも及ばないでしょうが、生花修得には、多少の厳しさは必要ではないかと思います。
「簡単生花」「楽しい生花」「即興生花」。昨今、そんなものばかり目立ちます。商業的に成り立つためには必要なことなのでしょうが。
千日挿花行など、見向きもされないかもしれません。
それでも提案したいのです。
実は、「どうして多くの外国人は生花が修得できないのだろう」と何年も考え続けています。
自然観が違うのか。教材が悪いのか。動機がいけないのか(虚栄心を満たすためとか、金のためとかでやっても、まあ、無理でしょう)。教え方が悪いのか。生花の文化的な価値を本気で考えていないのか。
そもそも生花の指導方法をまともに考えている人がほとんどいません。研究報告などほぼ皆無です。
私は日本語教育に関しては大学院レベルで研究しましたが、日本語教育研究と比べると、生花教育研究など存在しない!と言っていいほどです。
例えば、豪州で日本語教師になるためには大学院レベルで数年間、日本語教授法の勉強をしなければいけません。日本語の勉強ではなく、日本語の指導方法の勉強です。日本語の能力と日本語指導の能力は全く別物。日本語能力だけでいいなら、日本人誰でも豪州の教壇に立てることになります。肝心なのは、指導力です。日本ですと、場合によっては、英語がネイティブだというだけで教壇に立てるということがあったかもしれませんが。
生花教師になるためには、生花の勉強は求められるでしょうが、生花指導方法の勉強までは求められないでしょう。というか、生花指導方法の研究自体、ほぼ皆無なのです。勉強の術がないのです。母語話者だというだけで日本の教壇に立つ外国人と同じような立場の方ばかりなのです。
ですから、私が直面する問題、「いかに外国人に生花を教えたらいいのか」、に対しては、自分で仮説を立てて、検証していくしかありません。
私の仮説ですが、おそらく現在の生花指導がうまくいっていない理由は二つあると思います。この二つとも近代生花(現在、主流となっているいくつかの華道流派)の成立に関係があるように思います。
ひとつは、生花が瞑想体験だということが身についていない。
もうひとつは、生花が稽古を要する、つまり、練習を積み重ねて体得していくものだということが理解されていない。
ですから、現在必要な指導方法の要諦は、第一に、「瞑想の教え方」を含むものであること、次に、稽古という身体的な(頭で理解するものではなく)経験を積み重ねていくものであること、でしょう。
私が主導している生花道場では、それら二つを目指して、生花美学プログラム(瞑想重視)、千日挿花行(稽古重視)という二つのプログラムを提供しています。かなり稀な試みではないかと思います。どんな成果が出るのか、楽しみです。
2022年2月9日
生花デモンストレーションの問題点
YouTubeなどでも生花デモンストレーションを気軽に視聴できるようになり、ありがたいですね。ただ、ひとつ気がかりな点があります。海外で生花を教えている者からすると、私の生徒など、誤解しかねないな、と思う点があるのです。
2022年1月13日
生花習得理論
言語学の中でも特に面白いのは、言語習得理論かもしれません。
60年代にチョムスキーが言語習得装置(LAD)なるものを想定して、どうも子供には言語を習得する能力が先天的に備わっているようだねえ、ということで、あれこれ研究が進んできました。
さらに、外国語は、それを実際に使う(コミュニーケーションする)必要があるという状況で、最も効果的に身につくんじゃなかろうか、という話にもなってきました。
コミュニーケーションしようと「実際に言葉を使うこと」が、習得につながる!
言葉は、「学んで」身につけるもの、ではなく、「使って」身につけるものだ、ということ。
この点はよく考えてみる必要があると思います。例えば、試験のため、世間体のため、など様々な理由で私たちは外国語の勉強をするわけです。しかし、おそらくもっと切羽詰まった事情があって、身につけなければ自分の生存に関わるとか、コミュニケーションできなければ、他の子供と遊べないなどという状況であれば、もっと迅速に言語は身につくのかもしれません。
そこに言葉の存在理由があります。
さて、生花ではどうでしょう?
何が「生花習得装置」に最も効果的なのでしょう?生花の存在理由、本質的な意義はなんでしょう?
言葉であれば、コミュニーケーション。実際の意味のやりとりです。(文法やら何やらを学ぶために言葉が存在するわけではないのです。当然ですが)
では、生花では?
なんのために生花をやるのでしょう?他者からの称賛、自尊感情の向上、見栄、賞状、金銭的な報酬、どうもそうした外在的な価値を求めている人の作品は、やはり、そこまでのもの、という感じがあります。
「どうだ、すごいだろう」と人を驚ろかすことに躍起になっていたり、綺麗さを求めるばかりで、やたらにうるさく、装飾的、少しも面白くないとか、そういう作品はよくあります。
そうではなくて、より内在的な価値を求めて、花を生けざるを得ないというような方の作品がやはり面白いのです。おそらく、単純に面白くてやめられないという方が、やはりいい作品を生み出しているようです。
この動機の違いを踏まえたところから、つまり、花にどう向き合うかと考えるところから、本物の華道論も始まるのだろうと思います。
2022年1月10日
2021年12月9日
生け花と第二言語習得論
学校の英語の授業を受けても英語は話せるようにはならない。英会話を身につけたければ、英会話教室へ。
これは私が日本で学校教育を受けた頃の常識でした(私は大学までは日本です)。昔の話なので、最近はどうなのかわかりません。
学校英語と英会話教室の英語。どうも違いがあるなあ、というのは多くの方が感じておられたことでしょう。いろいろな意見があることでしょうが、大学院で第二言語習得論を少しかじった者からすると、この違いにはとても重要な意味があります。
簡単に説明します。言語教授法の歴史上、学校英語というのは文法翻訳教授法、オーディオ・リンガル法に基づいた指導です。19世紀から60年代くらいまでの指導理念に基づいています。要するに文法重視、ドリルをやって、ネィティブの音声を真似する。根本にあるのは、意識を鍛えて言葉を教えようという考え方。言語習得は習慣形成の結果で、目標は「言葉を教える」ということです。
英会話教室というのは、成功している学校の多くの場合、70年代以降、主流となったコミュニカティブ・アプローチを採用しています。目標は「言葉を使わせる」ことです。最終的な目的は言葉を覚えることではない。言葉を使って何ができるのか、そこを重視します。たとえ完全な外国語でなくても、外国語を使って、切符が買えた、商売が成立した、実際に何か成し遂げることができたなら、それを評価するわけです。そのような言語活動、タスク中心の指導をしていこう、というのがひとつの方針です。
この違いが分かっていない言語教師は問題です。例えば、オーストラリアにおける日本語教育は日本の英語教育と比べはるかに幸運な状況で発展してきています。コミュニカティブ・アプローチが主流で、そこを基に進化しています。ほんの数年日本語を学んだだけだという外国人が上手に日本語を話すのに驚いたことはありませんか?おそらくはコミュニカティブ・アプローチの成果です。
ところが、うちの生徒は歌やゲームを使って短時間でこれだけの単語数を楽しく覚えたとか、そんなことばかり自慢している日本語教師がいます。それを悪いとは言えないでしょうが(悪いと言った方がいいのですが)、重要なのは、テストの点ではないのです。言葉を使って何が実際にできたのか、です。
言葉を「覚えさせる」ことから、言葉を「使わせる」ことへ、という発想の転換ができない教師は、迷惑な化石のような存在。たとえ生徒から人気があっても、21世においては無用で無能な教師です。
コミュニカティブ・アプローチへの転換には、おそらく意識を鍛えるという発想から無意識を含めて鍛えようという発想の転換があったように思います。たとえ教えていない言葉であっても、状況から生徒はその新しい言葉を理解するものです。それはとても重要なことです。言語習得は無意識の領域で生成する創造的なものです。
さて、生け花です。
日本には数千の花道流派が存在するようですが、この問題をきちんと考えているところは存在しないように思います。私の論考が注目されることも当面なさそうです。
ふと思うのは、生け花の指導において、学校英語的な指導がなされているのではないか、ということ。型とかデザインとか意識のレベルで認知できることを指導することが中心なのではないでしょうか。
英語教育の目標は、言葉を覚えることではなくて、言葉を使って何が実際にできるかだ、とはっきりしてから指導方法が変わっていったのです。意識レベルの学習から、無意識を含む全人的な学習へ、と。
生け花では、花を使って瞑想できるか否か、その結果が作品になるのです。無意識の働きが大きく関わってきます。さらに突き詰めるなら、生け花の目的は、デザインの優れた作品を作ることというよりも、花を通じて瞑想を深めることなのです。意識から無意識へと焦点を転換させなければいけません。
ところが、海外においては瞑想ということができていないように思います。外国人の多くは生け花を意識の次元で解釈し、まるで西洋フラワーアレンジメントの延長として、デザインの問題として学ぼうとしているように思います。生け花風の作品は出てくるでしょうが、瞑想に基づく生命のある花は出てこないでしょう。
最近、井上治先生(国際いけ花学会会長)が、華道とは禅だ、という趣旨の著作を出版されました。とてもタイムリーな出版です。たくさんの方に読まれるといいなと思います。いつかこの著作についてもきちんと考えてみたいと思います。基本的には私の主張と同調です。井上先生とは連日メールでやりとりしていますが、このような立ち入った話はあまりしていないのです。それでも不思議と現代生け花の最大の問題点として、同じ課題(つまり、禅的性格あるいは瞑想体験の欠落)に対峙しているということは、嬉しい発見でしたし、とても力を得た思いです。
さて、瞑想しなさい、無意識を働かせなさい、と言うのは容易ですが、どのように指導していったらいいのか。そのような取り組みは現在、存在しないのではないでしょうか。
特に自由花の指導が問題です。
指導理論がないものですから、多くの流派で縦に伸びる形、とか横に伸びる形とかトピックを作り、作例を示して指導しています。このような指導書で生け花が上達するはずがありません。生気を欠いた駄作が生産され続けるだけです。
海外でも生け花の学習者が増えて、流派の収入が増えれば、それで十分。そんなことでは、生け花の生命は失われてしまいます。
指導しなければいけないのは、作例という結果ではなく、そこへ到るプロセスです。制作過程における瞑想体験を身につけてもらうことです。
そのようなことを考えて、生花道場では制作過程を重視した指導を導入することにしました。初めての試みですから、試行錯誤しながら取り組んでいこうと思います。
生花道場の取り組みについては他のところでも発表していく予定です。
2021年11月18日
生け花と嗜好
フランスの社会学者、Bourdieuの"The Rules of Art" は、手強い本ですが、名著とされています。私にとっては専門外の本ですが、自由花運動の分析の際、参考にさせてもらいました。その論考は、京都芸術大学から出版される書籍の一章に加えられるようです。
専門外のことに口を出すのはかなり怖いことだと承知していますので、いろいろ言い訳めいたことを言いたくなります。日本語版が入手できなかったので、英語で読み、それをもとに日本語で論文を書いた、などなどいろいろハンディがあったわけです。
ま、それはともかく、最近、気になった事があったので、ここにメモしておきます。いつか、もっと大きいものに膨らんでいくかもしれません。
Bourdieuの分析は、早い話、社会階層と芸術の嗜好が関連しているということ。上流階級が知的な純粋芸術、クラシック音楽を好み、中産階級、無産階級が大衆芸術、大衆音楽を好む。さらにクラシック音楽を好む子供が、気づくと上流階級に、ロックを好む上流階級の子供が成長すると無産階級に移行しているという原因と結果が逆転するようなことも起こり得ます。
嗜好というのは、思っている以上に不思議で、強力な力を持つものであるようです。
ただ、私が今、考えていることは、嗜好の問題として解釈していいのか。よくわからないのです。
それは、例えば、海外における生け花の現状についてです。
このブログで何度か書いてきましたが、日本人にはなかなか真似のできない生け花がよく存在します。失礼なことは書きたくないので、表現が難しいのですが、個性の強い生け花です。わかる方にはわかっていただけるでしょう。
それについてあれこれ考えてきました。この非詩的な生け花はどこから生じるのか、どうしたらうまく指導できるのか、と。さらに、自分なりの対応策を目指し、(私の考える)生け花の詩性を学んでもらいたいと、生け花コースまで作ってしまいました。
しかし、非詩的な花が多くの方に支持されるなら、そして、作者も満足、鑑賞者も満足、という状況なら、これをなんとかしようという私の立場に、意味があるのでしょうか?
例えば、ラップが好きだという若者に向かって、「そんなもの音楽じゃないよ。音楽の生命がない。モーツァルトを聞きなさい」などと言って笑われる老人に似ていないでしょうか?彼らにとっては、それこそが音楽なのです。新しい音楽として生きており、クラシック音楽はそこに音楽の本質があるかもしれないけれど、屍に過ぎない、興味はわかないということでしょう。
結局、他人の嗜好にあれこれ言っても仕方ないということでしょうか。海外における非詩的な生け花も生け花の新しい形なのかもしれません。
Bourdieuに戻ると、彼は、特定の芸術について、あれがいい、これがいいと議論し、闘争する「場」があって、そこからその時代に特有の芸術の定義が生まれるというようなことも書いています。
とすると、成り行き任せではなく、この生け花の「場」において、あれこれ発言してみる、批判してみる、そこに何か意味があるのかもしれません。たとえ敵を作ったり、嫌われたりするということがあったとしても。それは、先人も皆通ってきたプロセスなのです。
2021年11月16日
生け花とポストモダン
河合隼雄対話集「こころの声を聴く」(新潮文庫)の中で、ちょっと気になる部分があります。村上春樹とのやりとりです。
河合「日本の読者はプレモダンの人もたくさんいるから、ポストモダンみたいに見える人もいるんですね。それも大きい問題でしょうね。モダンをまだ通過していない人(笑)(略)
僕が心配しているのは、西洋の場合はモダンを通過してポストモダンに行くけれど、日本がモダンを回避してポストモダンに行った場合です」
村上「それはすごい問題になりますね。(略)」
私は生け花の文脈で、生け花の近代化について考えています。戦中、戦後の自由花運動から前衛いけばなの生け花ブームのあたりのことになります。
私見では、生花における近代化はかなり曖昧な表層的なものだったと思います。日本文学における近代化などと比較して考えても、やはり物足りないですね。もちろん私の知見は極めて限られていますが、おそらく重要な問題を提起したのは山根翠堂ただ一人かなと思います。
そして、生け花では「モダンを回避してポストモダンに行く」ということが、かなりの可能性で起こりえます。それが「すごい問題になる」のかどうか。全くも問題ないということになるかもしれません。また、いつか、考えがまとまったら書くことにします。
生け花におけるポストモダンとは何か。
それを実践している方々が、ほんの数名ですが、あるわけです。その人たちの活動は刺激的です。
2021年10月31日
Zoom 生花道場、レベル3
生花道場はのんびりと続けています。
レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。
レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。
レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。
ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。
既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。
なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。
海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。
レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。
いくつか論文やエッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。
生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。
また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。
さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。
傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。
しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。
幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。
2021年10月15日
外国人に生け花を教える難しさ(6)
外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA
その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。
ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。








