今回も「日本文化=禅文化論」に対する素朴な疑問を続けてみます。
4、日本人の宗教心の根本は祖先崇拝。そこに関わるのが仏教。それに対し、婚礼など現世の通過儀礼に関わるのが神道。しかし、こうした役割分担は江戸時代に成立したものであるようです。本来、祖先崇拝は神道の担当だったのです。仏教は伝来した頃、飛鳥朝の頃でしょうか、ちょうど現在のキリスト教と同じような位置だったのでしょう。高尚で、ちょっとファショナブル。でも、祖先崇拝までは任せられない。つまり、歴史上、日本人の精神の根本には祖先崇拝や神道的なものがずっとあったのでしょう。ところがそれは、非常に分かりにくく、仏教の衣の中に容易に隠れてしまうという面があるようです。
5、達磨が中国に伝えた当時の禅と日本の現行の禅とでは大きな差があります。禅は日本化しています。神道化と言ってもいいかもしれません。そして、説明不十分ではありますが、もしかすると、日本人は、禅という衣を被った神道を信仰しているのかも?美意識、自然観、到達点などがあまりに似過ぎています。
以上のようなことを踏まえると、素人なりに一つの仮説にたどり着きます。空想と思って下さい。実は、日本文化即ち禅文化というのは誤解ではないか?鈴木大拙、京都学派、さらに日本政府によって作られた一つの宣伝ではないか?とすると、そこに何か意図があったのではないか、と勘ぐりたくなりますね。
おそらく、その意図とは神道の無視。まず、神道自体なかなか研究が難しい。禅関連の本ならゴマンとありますが、神道となる入門書さえ、怪しげなものが多い。さらにより重要なのは、神道が戦前の日本の政治に関わっていたということ。神国日本などというイデオロギーがまかり通るようでは、戦後の国際社会ではやっていけない。神道には蓋をしておこうという面があるのでは?反日主義者が多勢の日本のマスコミにとっても神道など目の敵かも。実は、戦前の政治に関連する神道思想など神道の変種でしかないのですが。
しかし、いけ花を日本人の精神と関連させて考えようとすると、禅だけでは説明できないのです。神道に行き着きます。本来、日本文化は神道文化。この歴史的にも妥当な提案に共感者はあるでしょうか?とりあえず神道に関心を持つ人がもう少し増えてもいいように思います。
この作品はあるクリニックにいけた商業花。道で拾った枝を整理して再利用しています。
五月にはメルボルンで開催されるArts Learning Festivalに参加予定。ミケランジェロ・ピストレットなどの国際的芸術家も参加予定です。