華道家 新保逍滄

2016年7月26日

いけ花ギャラリー賞セミファイナル発表


いけ花ギャラリー賞セミファイナル作品が発表になりました。
以下のブログでご参照下さい。
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2016/07/semi-finalists-for-ikebana-gallery.html
また、以下のフェイスブック・ページから人気投票を受け付けています。
アルバム中の15作品からお気に入りの作品がありましたら、3作以上をLikeして下さい。おひとりあたり3作以上としているのは、ファイスブッックの友達の少ない生徒が大きな不利にならないようにするためです。
https://www.facebook.com/IkebanaGallery/photos/?tab=album&album_id=900827010046460

今後とも皆様のご支援をお願いします。

2016年7月21日

インターナショナル・フローラル・アート



Inernational Floral Art 2016-2017に作品が掲載されました。
2015年度のMelbourne International Flower and Garden Show への出展作です。
https://youtu.be/Z31-LwhP1DI
この作品は確か3日間で作ったものですが、時間が足りず苦労して仕上げたものです。協力してくれた私の生徒、スタッフに改めて感謝。

Inernational Floral Art の掲載作品は西洋花が中心です。
かなり質の高い作品が並んでいます。西洋花関連では最高権威の出版物というような謳い文句で流通しているようです。

西洋花といけ花の違いは?
西洋花と芸術の違いは?
いけ花と芸術の違いは?
ページをめくっていると、そんなことをつい考えてしまいます。

これら3者は、大まかなところで接しています。
隣接する3つの輪を描いて下さい。
それぞれの領域をずっと拡大していくと、接する部分が出てきます。

ただ、本質的な違い、根本の違いというのもしっかり認識しておく必要があるでしょう。
私がメルボルンの日本語新聞「伝言ネット」に100回以上連載中のエッセイでも重要なトピックです。このブログに「21世紀的いけ花考」として転載しているものです。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/07/blog-post_11.html

本質的な違いを考えていく際の焦点となるのは次の2点でしょう。
自然に対する態度の違い
歴史的文脈の違い
私にとっては興味深いトピックです。

2016年7月18日

一日一華:レストランにいける



メルボルンの花菱レストランにて。
商業花ですからあまりに実験的なことはできませんが
それでも基本を押さえつつ、
毎回、遊ばせてもらっています。
同じような骨格の花を何回か紹介してみます。

時間制限の中で
夢中で過ごす数時間は気持ちのいいものです。


2016年7月15日

ホーム・パーティーの花


常連のクライアントからホームパーティーの花の依頼。
通常、中作ひとつ、テーブルのセンターピース、そして、小品という組み合わせ。
この作品は最小のもの。
白いチューリップを見つけるや、
これしかない、とメインの花に。
脇役はピンクのバラでしょう。

2016年7月12日

オンライン指導



生花のオンラインのコースも完成していますが、まだ、正式に公開はしていません。
しかし、生徒の一人が国際的なビジネスに関わっていて、定期的に教室に通えないため、彼女の希望でオンラインで教えています。
上の作例の通り、彼女への指導は比較的うまくいっています。
やはりお互い実際に会っているということが大切かなと思います。
顔を合わせたことがない人にオンラインだけで指導というのは
生花の場合、難しいかもしれないですね。

それでも以下の通り、希望者には対応しています。

2016年7月11日

21世紀的いけ花考 第48回: 国際交流基金


 生花と現代芸術については書きたいことがまだたくさんあります。数年来、両者を比較して考えてきましたから。現代芸術の中にも花を使った作品が多数あります。しかし、「花を花として使っていない」と感じることが多いのです。おそらくいけ花をやっている方には分かっていただける感想でしょう。もしかすると西洋花に対してそのように感じるいけ花制作者もあるかもしれません。内輪だけならそれで分かり合えるでしょうが、この違和感をきちんと説明するのはなかなか難しい。知的訓練を積んでいない人になると「花が生きてないわ」「花への愛情がないのよ」とか言って済ませてしまいそうですが、それは浅薄。

 実は、この違和感を追求していくと「いけ花では花をどう使っているのか」「花をどう使ったらいけ花で、どう使ったらいけ花でなくなるのか」、結局、「いけ花とは何か」「その真髄は何か」と考えていくことになるのです。私の場合、そんなことを考えているうちに小論文ができてしまいました。Flowers in Contemporary Art という題で、国際いけ花学会の学術誌「いけ花文化研究」第3号に掲載されました。英文論文ですが、邦題は「現代芸術における花:いけ花的見地から」というあたりでしょう。A. Goldsworthy, S. Sze, A. Gallaccio という3名の現代芸術家の花を使った作品を取り上げ、花の扱い方を分析しました。この考察で気づいたことはまたおいおい話すことにしましょう。面白そうだなと思っていただけたら、私のサイトに論文要旨を英文、和文で掲載しますので、ご覧下さい。さらに、学術誌を購入しようかという方も大歓迎。1冊千円(要送料)。コーヒーとケーキを一回我慢すれば買えます。頭のトレーニングになって、国際いけ花学会を支援できて、カロリー減量もできる。いいことだらけです(笑)。

 今回は国際交流基金の依頼で制作した作品。前回紹介したのがビクトリア州政府依頼でしたから、数週間の間に政府関連の仕事が続きました。ありがたいことです。スノー・トラベル・エキスポという日本他への冬の観光振興を目指す博覧会でした。そこで日本文化紹介のコーナーに制作。制作したことのあるスタイルなら楽ですが、せっかくの機会です。あえて新しいスタイルに挑戦。制作時間が限られていて、うまくいくか分からない部分が多分にありました。とても勉強になりました。逆境への挑戦だけが成長をもたらす、と実感。



2016年7月8日

再び村松萬葉について:捕鯨論争


先のポストに続いて、村松萬葉に投稿したエッセーを紹介しましょう。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_28.html

普段は身辺雑記を投稿することが多いのです。
ちょっと恥ずかしいようなことを書いたりしています。
しかし、政治、社会について、
抑えきれず書いてしまうこともあります。
以下の数年前の文章もそんな心境で書いたもの。

政治的なこととなると冷静に話ができない方が時にあります。
いつの時代でも、どこでもそうでした。
http://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2016/06/blog-post_23.html
攻撃的な反論もあることを十分承知しつつも、
紹介しておきたいエッセーです。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

2016年7月5日

いけ花ギャラリー賞2016年度募集締め切り



2016年度のいけ花ギャラリー賞の募集は6月末日にて終了。
以降の投稿作品は17年度の賞への応募となります。
さて、これから私たちのコミティーで予選通過作品を10作選びます。
その後、1名の審査員の方のご協力をいただき5作まで絞ります。
この最終選考に残った5作品を私たちの審査員5名に送ります。
各審査員から上位3作品を選んでもらいます。
得点を集計して最優秀賞、いけ花ギャラリー賞が決定します。
http://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/




2016年7月4日

Shoso Shimbo

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