2016年12月1日
2016年11月30日
一日一華:枝物
本年度十一月には年末ワークショップとして
ブライダル・ブーケ
投げ入れ
枝物を取り入れて
という3つの課題に取り組みました。
3回目は大きな枝で遊ぼうということでしたが、
「大きな枝」とは何だ、その定義は?と尋ねられました。
なるほど。
自分でもきちんと定義したことがなかったことに気付きました。
大きな枝とは、花ハサミで切れない枝だ、というと納得してくれました。
のこぎりで切断して、もう一度集めて、組み合わせ、
ワイヤ、スクリューなどでつないで抽象的な形を作ります。
大きな作品を作るためには必要なテクニックです。
参加者はよく頑張ってくれました。
初めてのこぎりを使う、ドリルを使うという方も
何人かありましたが、とても楽しそうでした。
2016年11月28日
2016年11月21日
一日一華:商業花
クリニックのレセプションに。
ピンクの花はVerticordiaというそうです。
商業花ですからクライアントのご希望を大切にします。
また、あまり奇抜なものは避けたほうが無難。
典型的な商業花のいけ花を目指しています。
場所に適切なもの、サイズ、作品の雰囲気を合わせることが大切。
さらに、もちの良い花を、というのも大切な要素です。
通常1週間に1回ですから。
しかし、商業花とはいえ、作っている間は楽しい瞑想の時間で、
お金などいらないのになあとよく思います。
材料費、搬入の手間を考えると
そうも言っていられないわけですが。
2016年11月10日
2016年11月4日
21世紀的いけ花考 第52回
いけ花と現代芸術の違いに気づくと、いけ花を、そして現代芸術をより深く理解する手助けになるでしょう。現代芸術の例として村上隆の「お花」という作品をグーグルしてみて下さい。花の中にスマイルが描かれています。それと例えば私の以下のいけ花を比べてみましょう。花菱レストランに活けたもの。
私は村上隆については無知です。間違ってるかもしれませんが、おそらく「お花」をいくら眺めていても、作品の本質は分からないでしょう。綺麗ではあるが、子供でも書けそうだなと思いませんか?以前、現代芸術の命は意味だと書いたことがありますね。では、この作品の意味は何でしょう?
おそらく作者は浮世絵を含む日本絵画の伝統、アニメ、アメリカ産ポップアートといった歴史を踏まえてこそ、意味が生じてくるというあたりを狙っているのでしょう。つまり、作品の意味は作品の外にあるコンテクスト(歴史や社会文化)から生じてくるわけです。さらにその意味を考えることで思想も生まれてきます。このコンテクストが分からなければ、意味も分からない。「子供の絵じゃないか」で終わってしまうのです。
それに対し、いけ花は目の前にあるものが全て。もちろん、「この枝の使い方は伝統的な立花の現代版かな」というような歴史的なコンテクストを踏まえた解釈が若干出てくることもあります。しかし、基本的には目の前に提示されたものに美を感じられるかどうか、そこが本質であり、命です。コンテクストを踏まえた意味、思想まで発展させるということは得意ではありません。つまり、知性ではなく感性に訴える芸術です。
これは俳句の鑑賞に似ています。「古池や蛙飛び込む水の音」という句。自然の中の静寂、寂寥感、それがこの句の命でしょう。そこに共感できればいい。もちろん禅の思想やら何やら深い解釈も可能でしょうが、それは枝葉末節。こだわり過ぎれば本質を見失ってしまいます。いけ花も俳句も感性に響く作品を作るために作者は技術を磨かなければいけません。技術は尊重されます。その習得のためには修練が必要で、その過程が道であり、人間脩養であるとするからです。
しかし、西洋芸術では技術さえあれば誰でも描ける花の絵など重視しなかったという話を前回しましたね。技術よりも知識、想像力に訴えるものを重視するわけです。現代芸術にもその態度が続いています。
今回のとりあえずの結論は、現代芸術は知性で鑑賞し、いけ花は感性で鑑賞する芸術だということです。
2016年11月3日
2016年10月28日
2016年10月23日
21世紀的いけ花考 第51回
現代芸術といけ花の比較論を試みています。両者の根本的な違いは何だろうと考えていたところ、それは俳句と小説の違いに似ていると思いついたのでした。「いけ花は俳句、現代芸術は小説」と考えると、それぞれの根本的な特徴がよく理解できるように思います。
しかし、私の「いけ花・俳句試論」を始める前に、もう1点指摘しておきたいことがあります。西洋絵画史における花の位置付けです。それを確認しておくと、私の話がすっと理解できるようになるはずです。
西洋絵画史において古来、静物画、殊に花の絵はステータスの低い分野でした。では、ステータスの高い分野とは何か?戦争の勝利や聖賢の業績を描いた歴史的絵画です。花の絵と歴史的な絵、両者がどのようにみなされていたか、ベンカード論文を参照し、簡単に説明します。
まず、歴史的絵画には物語があるのに対し、花の絵は綺麗なものを描写しているだけ。歴史的絵画を描くには、知識、直感、想像力など知的な能力が求められるのに、花の絵は何も考えなくても描けるじゃないか。前者は詩人、哲学者でないと描けないが、後者は技術があれば誰でも描ける。前者は作品鑑賞でまるで文学のように解釈や議論が生まれてくるのに、後者はただの描写。魂の問題もない。前者は高尚なハイカルチャー、要するに本物の芸術。後者は低俗、誰にでも受け入れられる、大衆的なローカルチャー、要するにただのクラフト(工作)という見方が一般的だったのです。19世紀後半の印象派の台頭までこうした状況だったようです。
ここで考えて欲しいことは、花がステータスの低い題材とみなされていた、その理由。上記のように指摘されれば「そういう見方もあるか」と納得していただけるでしょうか。そして、気付いて欲しいより大事な点は、なぜ歴史的絵画が高尚とみなされていたかということ。つまり西洋芸術では何が尊重されるのかということ。実はこれ、西洋芸術の価値観。作品がただ綺麗なだけ、技術が凄いだけというよりも、作品の意味や知的なものを重視する態度があったのだ、ということを確認しておきたいのです。これで私のいけ花・俳句論への準備ができました。次回に続きます。
今月紹介するのはFitzroy に開店した「ちょっと」に活けた作品。若いカップルが開いた精進料理カフェ。あちこちにレビューが載ったせいか、開店とともに満員御礼。完売閉店が続き、順調な滑り出しのようです。
さて、10月8、9日には三流派合同いけ花展「和」が、アボッツフォード・コンベントで開催されます。メルボルンの小さな観光名所のひとつ。ぜひお越し下さい。
2016年10月15日
2016年10月9日
一日一華
十月九日、私たちの合同華展が無事終わりました。
とても盛況でしたから、成功と言っていいと思います。
生徒にとって有意義な経験だろうということで
参加しているわけですが、
私にとっても有意義な展覧会でした。
ただ、反省点もたくさんあります。
おそらくそれはかなり根深い文化的なものだろうと思います。
私の生徒は多くが協力的ではありますが、
まだ、運営のお手伝いという点では不足な部分が多いのです。
庶務において他流派の方々に依存しすぎているように思います。
何人かの生徒は華展開始直前に作品を持ち込み、
終了と同時に作品を運び去る。
後片付けもない。自分のテーブルさえ掃除しないという状況。
専業主婦や退職者というより仕事をしている方が多い、
忙しい生徒が多い、
まだまだ長年通っている生徒が少ない、
生徒にアジア系は少なく、ヨーロッパ系が多いというような
事情もあります。
日本で日本人を相手に、
お稽古事を教えるというのとは
おそらく、全く別の問題があるわけです。
一度、合同展ではなく単独で華展を開いて
いかに庶務が多いか、協力が必要か
体験学習してもらおうかと思っています。
2016年10月5日
一日一華:名画の前に
これほど素晴らしい名画の前に華を、というリクエスト。
苦労を察していただけるでしょうか。
グリーンゴッデス、緑の女神という商品名のカラー
を並べて立ててみました。
ある時から「忙しい」という言葉を
口にしないように心がけています。
おそらくそれは「忙しい、忙しい」とまるで念仏でも唱えるように
繰り返す人に出会ったことがあるからだと思います。
昨今、おそらく誰でも忙しいでしょう。
「忙しい」と口癖のように言っている人は
時間管理ができない人
仕事ができない人
他人のために自分の時間を使いたくない人
かもしれない。
この人はなかなかすごいなあと
尊敬できる人たちが何人かいます。
この人たちから「忙しい」という言葉を聞いたことがないのです。
私から見たら絶対忙しいはずなのに、です。
有能は人は「忙しい」なんて言わないのではないか。
とはいえ、「忙しいなあ」と
ぼやきたくなる今日この頃です。
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