現代芸術といけ花の比較論を試みています。両者の根本的な違いは何だろうと考えていたところ、それは俳句と小説の違いに似ていると思いついたのでした。「いけ花は俳句、現代芸術は小説」と考えると、それぞれの根本的な特徴がよく理解できるように思います。
しかし、私の「いけ花・俳句試論」を始める前に、もう1点指摘しておきたいことがあります。西洋絵画史における花の位置付けです。それを確認しておくと、私の話がすっと理解できるようになるはずです。
西洋絵画史において古来、静物画、殊に花の絵はステータスの低い分野でした。では、ステータスの高い分野とは何か?戦争の勝利や聖賢の業績を描いた歴史的絵画です。花の絵と歴史的な絵、両者がどのようにみなされていたか、ベンカード論文を参照し、簡単に説明します。
まず、歴史的絵画には物語があるのに対し、花の絵は綺麗なものを描写しているだけ。歴史的絵画を描くには、知識、直感、想像力など知的な能力が求められるのに、花の絵は何も考えなくても描けるじゃないか。前者は詩人、哲学者でないと描けないが、後者は技術があれば誰でも描ける。前者は作品鑑賞でまるで文学のように解釈や議論が生まれてくるのに、後者はただの描写。魂の問題もない。前者は高尚なハイカルチャー、要するに本物の芸術。後者は低俗、誰にでも受け入れられる、大衆的なローカルチャー、要するにただのクラフト(工作)という見方が一般的だったのです。19世紀後半の印象派の台頭までこうした状況だったようです。
ここで考えて欲しいことは、花がステータスの低い題材とみなされていた、その理由。上記のように指摘されれば「そういう見方もあるか」と納得していただけるでしょうか。そして、気付いて欲しいより大事な点は、なぜ歴史的絵画が高尚とみなされていたかということ。つまり西洋芸術では何が尊重されるのかということ。実はこれ、西洋芸術の価値観。作品がただ綺麗なだけ、技術が凄いだけというよりも、作品の意味や知的なものを重視する態度があったのだ、ということを確認しておきたいのです。これで私のいけ花・俳句論への準備ができました。次回に続きます。
今月紹介するのはFitzroy に開店した「ちょっと」に活けた作品。若いカップルが開いた精進料理カフェ。あちこちにレビューが載ったせいか、開店とともに満員御礼。完売閉店が続き、順調な滑り出しのようです。
さて、10月8、9日には三流派合同いけ花展「和」が、アボッツフォード・コンベントで開催されます。メルボルンの小さな観光名所のひとつ。ぜひお越し下さい。