華道家 新保逍滄

2016年11月4日

21世紀的いけ花考 第52回



 いけ花と現代芸術の違いに気づくと、いけ花を、そして現代芸術をより深く理解する手助けになるでしょう。現代芸術の例として村上隆の「お花」という作品をグーグルしてみて下さい。花の中にスマイルが描かれています。それと例えば私の以下のいけ花を比べてみましょう。花菱レストランに活けたもの。

 私は村上隆については無知です。間違ってるかもしれませんが、おそらく「お花」をいくら眺めていても、作品の本質は分からないでしょう。綺麗ではあるが、子供でも書けそうだなと思いませんか?以前、現代芸術の命は意味だと書いたことがありますね。では、この作品の意味は何でしょう?

 おそらく作者は浮世絵を含む日本絵画の伝統、アニメ、アメリカ産ポップアートといった歴史を踏まえてこそ、意味が生じてくるというあたりを狙っているのでしょう。つまり、作品の意味は作品の外にあるコンテクスト(歴史や社会文化)から生じてくるわけです。さらにその意味を考えることで思想も生まれてきます。このコンテクストが分からなければ、意味も分からない。「子供の絵じゃないか」で終わってしまうのです。

 それに対し、いけ花は目の前にあるものが全て。もちろん、「この枝の使い方は伝統的な立花の現代版かな」というような歴史的なコンテクストを踏まえた解釈が若干出てくることもあります。しかし、基本的には目の前に提示されたものに美を感じられるかどうか、そこが本質であり、命です。コンテクストを踏まえた意味、思想まで発展させるということは得意ではありません。つまり、知性ではなく感性に訴える芸術です。

 これは俳句の鑑賞に似ています。「古池や蛙飛び込む水の音」という句。自然の中の静寂、寂寥感、それがこの句の命でしょう。そこに共感できればいい。もちろん禅の思想やら何やら深い解釈も可能でしょうが、それは枝葉末節。こだわり過ぎれば本質を見失ってしまいます。いけ花も俳句も感性に響く作品を作るために作者は技術を磨かなければいけません。技術は尊重されます。その習得のためには修練が必要で、その過程が道であり、人間脩養であるとするからです。

 しかし、西洋芸術では技術さえあれば誰でも描ける花の絵など重視しなかったという話を前回しましたね。技術よりも知識、想像力に訴えるものを重視するわけです。現代芸術にもその態度が続いています。

 今回のとりあえずの結論は、現代芸術は知性で鑑賞し、いけ花は感性で鑑賞する芸術だということです。 

Shoso Shimbo

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