華道家 新保逍滄

2016年11月3日

一日一華:レモン


庭のレモンです。3メートルほどの高さに育っているのに全く実をつけないレモンでした。
ところが今年突然の豊作。おそらく冬の間、雨が多かったせいでしょう。
枝が垂れて、車の頭にぶつかります。
仕方なく2本ほど剪定。
捨ててしまうのはもったいないですね。
素晴らしい花材です。
庭の他の草花と取り合わせてみました。


2016年10月28日

2016年10月23日

21世紀的いけ花考 第51回


 現代芸術といけ花の比較論を試みています。両者の根本的な違いは何だろうと考えていたところ、それは俳句と小説の違いに似ていると思いついたのでした。「いけ花は俳句、現代芸術は小説」と考えると、それぞれの根本的な特徴がよく理解できるように思います。

 しかし、私の「いけ花・俳句試論」を始める前に、もう1点指摘しておきたいことがあります。西洋絵画史における花の位置付けです。それを確認しておくと、私の話がすっと理解できるようになるはずです。

 西洋絵画史において古来、静物画、殊に花の絵はステータスの低い分野でした。では、ステータスの高い分野とは何か?戦争の勝利や聖賢の業績を描いた歴史的絵画です。花の絵と歴史的な絵、両者がどのようにみなされていたか、ベンカード論文を参照し、簡単に説明します。 

 まず、歴史的絵画には物語があるのに対し、花の絵は綺麗なものを描写しているだけ。歴史的絵画を描くには、知識、直感、想像力など知的な能力が求められるのに、花の絵は何も考えなくても描けるじゃないか。前者は詩人、哲学者でないと描けないが、後者は技術があれば誰でも描ける。前者は作品鑑賞でまるで文学のように解釈や議論が生まれてくるのに、後者はただの描写。魂の問題もない。前者は高尚なハイカルチャー、要するに本物の芸術。後者は低俗、誰にでも受け入れられる、大衆的なローカルチャー、要するにただのクラフト(工作)という見方が一般的だったのです。19世紀後半の印象派の台頭までこうした状況だったようです。

 ここで考えて欲しいことは、花がステータスの低い題材とみなされていた、その理由。上記のように指摘されれば「そういう見方もあるか」と納得していただけるでしょうか。そして、気付いて欲しいより大事な点は、なぜ歴史的絵画が高尚とみなされていたかということ。つまり西洋芸術では何が尊重されるのかということ。実はこれ、西洋芸術の価値観。作品がただ綺麗なだけ、技術が凄いだけというよりも、作品の意味や知的なものを重視する態度があったのだ、ということを確認しておきたいのです。これで私のいけ花・俳句論への準備ができました。次回に続きます。

 今月紹介するのはFitzroy に開店した「ちょっと」に活けた作品。若いカップルが開いた精進料理カフェ。あちこちにレビューが載ったせいか、開店とともに満員御礼。完売閉店が続き、順調な滑り出しのようです。

 さて、10月8、9日には三流派合同いけ花展「和」が、アボッツフォード・コンベントで開催されます。メルボルンの小さな観光名所のひとつ。ぜひお越し下さい。

2016年10月15日

2016年10月9日

一日一華


十月九日、私たちの合同華展が無事終わりました。
とても盛況でしたから、成功と言っていいと思います。
生徒にとって有意義な経験だろうということで
参加しているわけですが、
私にとっても有意義な展覧会でした。

ただ、反省点もたくさんあります。
おそらくそれはかなり根深い文化的なものだろうと思います。
私の生徒は多くが協力的ではありますが、
まだ、運営のお手伝いという点では不足な部分が多いのです。
庶務において他流派の方々に依存しすぎているように思います。
何人かの生徒は華展開始直前に作品を持ち込み、
終了と同時に作品を運び去る。
後片付けもない。自分のテーブルさえ掃除しないという状況。

専業主婦や退職者というより仕事をしている方が多い、
忙しい生徒が多い、
まだまだ長年通っている生徒が少ない、
生徒にアジア系は少なく、ヨーロッパ系が多いというような
事情もあります。

日本で日本人を相手に、
お稽古事を教えるというのとは
おそらく、全く別の問題があるわけです。

一度、合同展ではなく単独で華展を開いて
いかに庶務が多いか、協力が必要か
体験学習してもらおうかと思っています。

2016年10月5日

一日一華:名画の前に


これほど素晴らしい名画の前に華を、というリクエスト。
苦労を察していただけるでしょうか。

グリーンゴッデス、緑の女神という商品名のカラー
を並べて立ててみました。

ある時から「忙しい」という言葉を
口にしないように心がけています。
おそらくそれは「忙しい、忙しい」とまるで念仏でも唱えるように
繰り返す人に出会ったことがあるからだと思います。
昨今、おそらく誰でも忙しいでしょう。
「忙しい」と口癖のように言っている人は
時間管理ができない人
仕事ができない人
他人のために自分の時間を使いたくない人
かもしれない。

この人はなかなかすごいなあと
尊敬できる人たちが何人かいます。
この人たちから「忙しい」という言葉を聞いたことがないのです。
私から見たら絶対忙しいはずなのに、です。
有能は人は「忙しい」なんて言わないのではないか。

とはいえ、「忙しいなあ」と
ぼやきたくなる今日この頃です。

2016年9月27日

一日一華:ちょっとさんへ


白樺に山吹、
それに、ネコヤナギ。
「北国の春」といったところ。

歌詞の中ではコブシも出てきますね。
我が家の庭ではコブシが終わって、
山吹が咲いています。
白樺も芽吹いてきました。
メルボルンはようやく春です。


2016年9月19日

2016年9月12日

2016年9月11日

一日一華:クリニックのレセプション


新しいクライアントへの春のアレンジメント。
商業花では、サイズ、その他、様々なクライアントのニーズに応えなければいけません。
おそらく発生した当時のいけ花もそうした柔軟なものだったと思います。
それが、規定の古典花の繰り返しになり、柔軟性を失っていったのかもしれません。

連翹も黄梅も我が家の庭から採取したもの。

2016年9月6日

21世紀的いけ花考:第50回


 現代芸術といけ花の違いについてあれこれ書いてきました。しかし、どうも木を見て森を見ずではないか、という感じがします。両者の相違点はたくさんあって、いずれも重要ではありますが、根本的な違いをがっちり押さえておかないことには、どうも腑に落ちないということになりかねません。

 「どちらも『芸術』。根本は同じさ」というのは浅薄。きちんと考えれば違いばかりがごろごろ出てきます。では、最も肝心な違いとは何でしょう?A Bとの違いが分かるというのはとても大切です。違いが分かると、A が、そしてBが一層よく分かるようになるからです。豪州に住んでいると日本との様々な違いに気づきますね。その結果、日本が一層よく分かるようになります。違いが分かると理解が深まるのです。A Bも同じだよ、なんていうのは、A Bも分かっていないということです。

 現代芸術といけ花の根本的な違いとは何でしょう?この違いに気付いてもらえば、芸術もいけ花も一層よく理解できるというポイントは何でしょう?現代芸術もいけ花もやる制作者としての主観的な見解ですが、両者の違いは小説と俳句の違いに似ています。現代芸術は小説、いけ花は俳句として鑑賞したらいいのではないでしょうか。もしかすると私の「いけ花・俳句論」は現代芸術の本質は西洋文化的、いけ花の本質は日本文化的というようなありきたりな文化比較論になってしまうのかもしれません。それも悪くないでしょう。現代芸術、そして、いけ花を一層よく理解してもらうのに役立てていただければ十分です。いけ花・俳句論については、次回からお話ししていきましょう。

 今月はレズリー・キーホー・ギャラリーズでの小林秀明展に小路光男の花器を使っていけたもの。オープニングには小路さんもいらっしゃったそうですが、気に入っていただけたか気になります。一杯やりましょうという約束を果たせないでいるのが残念。

 主花は木瓜。様々な使い方ができ、楽しい花材です。我が家では白、ピンク、赤、と3株育てています。この作品に限らず言えることですが、数十本の花材一つ一つを長さ、位置を計算しながら活けていく過程は瞑想そのもの。集中した無我の時間で、一度味わうと病みつきになります。多くの方に経験していただきたいものです。まずは10月8、9日の私たちの花展にお越しいただければ幸いです。


2016年9月5日

一日一華:二つの戦争


メルボルン、花菱レストランへの今週の花。

日本近隣の国々が騒々しいせいでしょう。
最近は、どこへ行っても戦争をどう避けるか、
どうしたら平和が維持できるのか、という話に巻き込まれます。

日本のマスコミは日本周辺の不安材料をあまり報道していないようで、
日本全体がのんびり構えているように見えます。
日本のマスコミは意図的に国民を白痴化しようと
努めているのかもしれません。
あるいは、根拠のない楽観主義がはびこっているのでしょうか。

「憲法改正反対」「日本を戦争のできる国にするな」という声はよく耳にします。
そうした話に注意してみると、気付くことが幾つかあります。

まず、彼らの言う戦争とは、日本の侵略戦争のことであるようです。
戦前、日本は侵略戦争を行った(と彼らは主張します)。
そのために徴兵制や軍事拡大が国是であった。
あのような戦時体制を二度と経験したくない。
というのが大まかな主張。

今現在、日本が侵略戦争を行えるでしょうか?
植民地主義が国際的に批判されている中で、
日本が侵略戦争を開始すれば、
国際連合軍相手に戦うことになります。
即、敗戦です。
それが分からないような政権が、日本の現体制から生まれるでしょうか?
日本はそこまで退化していないです。心配の必要はないでしょう。

「第二大戦前夜を見てみろ、今の日本と状況はとても似ている」
というような議論もとても多い。
これは日本人大衆の無知につけ込んで、不安を煽る意図的な議論です。
意図的と私が断じるのは、そうした議論で民衆を非現実的な幻想に閉じ込めておくことで、有利になる人、国があるからです。
現実から目をそらすよう誘導しているのです。
本当の不安の正体を見えないようにしよう、としているのではないでしょうか。

もっと、国際情勢を知り、日本の現状を理解する必要があります。
心配しなければいけないのは
外への侵略戦争に引っ張り出されることではなく、
外からの侵略戦争に巻き込まれることなのです。
戦場に無理やり送り出されることではなく、
日本が戦場になってしまうことなのです。
そちらの方こそ今、心配しなければいけない。
その上で、現状の憲法で非常時に対応できるのかな、と
考えていくべきでしょう。

いくら対外的に攻める戦争を放棄しますと頑張っても、
攻めてくる相手にはどうにも手立てがないのです。
相手が攻めてくれば、戦争が始まります。

その現実を見たくないために(あるいは意図的に隠すために)、
全く必要のない心配をしている(させている)のではないでしょうか?

日本が対外的に仕掛けていく侵略戦争と、
外部から日本が侵略され、その防衛のための戦争とを
まず、区別をすること。

前者は非現実的で心配はないが、後者は現実的で心配なのだと早く気づいていただきたい。
日本を「戦争ができない国」にすることで、前者は防ぐことができても、
後者は防ぎようがないのです。この二つの戦争を一緒くたにしてはいけません。

「戦争ができない国」であれば、平和が維持できる、一切の戦争がなくなる、二つの戦争のどちらも防げるというような議論は間違っています。
そのようなお花畑の平和論はとても危険です。
「戦争ができない国」ほど、攻めやすいものはない。
即、国土をいただき、略奪虐殺やり放題。
侵略したい国にとっては願ってもない餌食です。

以上は誰が考えても明らか。国際的な常識です。
そのことに、「今、気付いた」という方があるとすれば、それはマスコミの洗脳にかかっていたということ。

日本のマスコミの多くは
日本を侵略したい国々に近い人間達が牛耳っているのだ、
日本人白痴化を狙っているのだ、
危険な平和論で日本人を洗脳しているのだ、と
早く気づいていただきたい。

また、「侵略されたら戦争などせず、相手のなすがままにしていましょう」
「相手が欲しいという島があれば差し上げましょう」
というのに近い議論まであります。
これもまた、日本を侵略したい国々に近い人間達の言説。

チベットがどうなっているのか、
国家を失った難民がどうなっているのか、
少しでも調べてみるべきです。

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