2022年12月24日
2022年12月2日
2022年11月9日
ラーメン屋と生け花と存在論
2022年10月24日
2022年8月10日
平和のための生け花
1930年代、第2次世界大戦に向けて日本が戦時体制を整えていった頃、「国家のための茶道」とか「国家のための生け花」、「国家のための各種伝統文化」という主張がなされたようです。
茶道あるいは生け花の修行を通じて、精神を鍛え、戦争のもたらす患難に耐え、戦争に勝利しよう、という趣旨だったのでしょう。
とすると、「国家のため」という言葉が、「戦争のため」という言葉に取り替えられたり、両者が同一視される可能性があるように思います。「戦争のための生け花」とは、とんでもない!ということになります。特に、戦後私たちを取り巻く教育やメディアの言説は偏向の強いものでしたから、政治的なこととなると、なかなか正確に考えることが難しくなっています。「『国家のため』ということがすべて悪につながる、というのは冷静な考えではない」と、なかなか考えられなくなっているのではないでしょうか。
ところが最近、日本の平和ボケに警鐘を鳴らす事件が相次いで起こっています。殊に日本のことを最も考えてきた重要な政治家が、自分のことしか考えない愚劣な暴漢に簡単に暗殺されてしまうという事件は、まるで平和ボケ日本の行く末を暗示しているようです。安全確保がなおざりの今のままでは、こんな悲惨なことになってしまうのだよ、国民の財産、生命が守れないのだよ、という警鐘です。
おそらく日本の世論はこれから大きく変わっていくでしょう。メディアの偏向も、見当はずれも明らかになってくるでしょう。日本の世論の成熟を阻止しよう、日本人の意識を目覚めさせたくないというメディアからはまるで断末魔を迎えたかのような激しい言説があふれてきています。
ここで、国家のための文化、ということをもう一度考え直してもいいように思います。
例えば、国家のための生け花。日本文化としての生け花には、国際社会で重要な側面があるのではないでしょうか。もちろん、茶道、柔道、太鼓、音楽、舞踏、料理、アニメなどなど、どのような文化活動にも当てはまることでしょうが。
仮に日本が隣国から攻められるというような事態になったとします。
もちろん、日本近辺には友好国ばかりで、隣国を侵略したり、少数民族を迫害したりするような軍事大国は存在しないと日本のメディアは伝え続けるでしょうが。友好条約があるじゃないか。自己防衛などもってのほか、憲法を守れば平和が守れると訴え続けるでしょう。「憲法を守って、国を滅ぼす立派な日本」を理想としているのでしょうから。
まあ、仮にそのような緊急事態に陥ったとします。
その時、平和維持に、極めて重要な働きをするのが国際世論です。ウクライナが例を示してくれています。国際世論を日本に引き付けるために、文化が大きな働きをするのです。例えば、「あの素晴らしい生け花を持つ国家を滅ぼしていいはずがない」これは強力です。
したがって、生け花をきちんと伝える、多くの方に愛好されるように伝えるということは日本の国防につながるのです。そのような意味での「国家のための生け花」が「平和のための生け花」になる可能性は大きいと思います。
海外で生け花を広めようと、メルボルン生け花フェスティバルを運営し、苦労していますが、そこまで考えていただければ、もっと協力者が現れて下さるはずなのです。自分のことにしか関心がない、自分の流派という家族企業の成長にしか興味がないなど、いろいろな考えがあって当然でしょうが、より大きな目標のもとに、生け花の将来のためにメルボルン生け花フェスティバルが育っていくと面白いでしょうね。
2022年6月23日
出版のお知らせ:伝統文化研究編(京都芸術大学)
さらに英語にまつわる話を続けます。先のポストで英語攻略の秘訣を紹介し、英語解読はたやすいなどと書いたばかりです。https://ikebana-shoso.blogspot.com/2022/06/blog-post_21.html
たいていの英書は大丈夫。オーストラリアの大学院から学位がいただける程度の読解力はあるはずなのです。
ところが、これは手強い!と感じた本に最近出くわしました。
Pierre Bourdieu, The Rule of Art, Stanford University Press.
フランスの社会学者の著作を英訳したものです。一文が果てしなく長く、息切れするほどで、さらに文構造が複雑なのです。社会学の英書で、ここまで難解なものはあまり読んだことがありません(もちろん、相当に限られた読書経験内での話でありますが)。これはこの著者の特徴なのか、フランス人はみんなこんな文で考えているのか(フランス語教師の家内によれば、そういうことはないようです)、翻訳のせいなのか、それはよく分かりませんが、とても苦労しました。
翻訳ということでは、例えば、西洋の哲学書など日本語訳だとちんぷんかんぷんなのに、英語だと簡単に理解できるということがよくあります。そうすると、翻訳のせいで実際以上に難しくなっている可能性もあるように思います。
この本は、私が準備していた論文にとって重要な参考書で、なんとか読み込む必要がありました。そして、ともかく仕上げた論文が以下の通り出版されました。
井上治・森田都紀 編集「伝統文化 研究編 (はじめて学ぶ芸術の教科書)」京都芸術大学第一章 第二次大戦前後の生け花場における自由花運動の相対的位相 新保逍滄
リフロー型の電子テキストとして販売。
■Kindleストア 価格¥1200
www.amazon.co.jp/dp/B0B4C36WPM ※予約ページ
■honto 価格¥1200
https://honto.jp/ebook/pd_31775546.html ※予約ページ
等、電子書籍書店にて
<オンデマンド書籍>
デジタル印刷の技術を使い、1部から少部数(300部程度)までの製造に対応するものです。読者の注文を工場で情報受け取りしてから製造します。
以下2店舗で扱います。
■amazonPOD 価格¥1300
www.amazon.co.jp/dp/4909439617
■honto (https://honto.jp/) 価格¥1300
予約ページ準備中
2022年6月21日
思い出すこと:英語の攻略
中学高校の頃、英語学習にはとてもたくさんの時間を費やしました。会話ではなく、ただひたすら文法翻訳の練習です。
高校1年生くらいの時だと思いますが、英語にひとつの法則を見つけました。それは誰かから教わったのでも、参考書で見つけたわけでもないと思います。この法則は今でも役立っているのです。もしかすると、誰でも知っている陳腐なことかもしれませんし、教科書にきちんと書いてあることかもしれません。
それでも何人かに話したところ、感心してくださる方もありました。もしかすると面白いことなのかもしれません。私にとっては英語攻略の秘訣でありましたし、この法則に照らして、プロの誤訳を見つけたことも多々あります。また、この法則を無視した日本人の英作文に時々おめにかかります。
それは「& の法則」と、自分で呼んでいるもの。
Andが結ぶものは、文法的に同格であり(名詞と名詞、句と句、文と文、など)、結ばれたものは構文上、同格の機能を持つ(目的語と目的語、連体修飾語と連体修飾語、など)。
このことがわかると、いくら長く、複雑な英文でもスラスラ解読できるのです。5文型を覚え、「&の法則」が分かっていれば、英語は攻略できると思います。長文読解は大好きな課題でしたが、そこにはパズルを解いていくような面白さがありました。英語は得意科目だったのですが、その根本にあったのは「& の法則」の習得だったのではないかとさえ思います。
もっとも「自分は英語が得意だ」などという儚い幻想は、オーストラリアの大学院に入るや否や、瞬時に消え去ってしまったのですが。
2022年6月20日
思い出すこと:人生の岐路
あれが人生の岐路、だったかな、と思うようなことがいくつかあります。いい歳になってくれば、どなたもそんな思いを持たれることでしょうが。
私にはどうも2種類の岐路があったように思います。
ひとつは、外からやってくる岐路、人生の分かれ道。こういう曲面に対し、私はとてもいい加減だったなあと感じます。特に後悔もしていませんが。例えば、大学進学。日本の国立大学に落ちたので、合格していた私大に進むことにしました。いくつか合格通知が来ていたはずなので、探しました。ところが、早稲田からの通知は見つかったのに、慶應のものが見つからない。これも天意かもしれない、と早稲田に進みました。
ただ、合格して嬉しかったのは、慶應でした。というのは英語の試験問題が最高だと思ったからです。受験の得意科目は英語でしたが、自分の力(それほどの力でもなかったですが)を存分に発揮できたと感じたのです。それに対しやりがいがなかったのは東大です。私が受験した年は唐突にも最長文問題に、論説ではなく、小説が出題され、全く歯が立ちませんでした。小説読解は準備ゼロでした。その時点で落第は決定。もう自分の人生には意味がないとまで思い詰めたものですが、今となっては笑い話です。同様にやりがいがなかったのは早稲田の問題で、「こんな問題を解くために何年も受験勉強してきたのではない」などと生意気なことを思ったことを覚えています。
もうひとつ。大学で教職課程をとり、受講し、試験まで受けたのに、成績がついてこない。問い合わせると、私は講座の登録手続きに不備があり、受講資格がなかったとのこと。未登録の授業に出て、せっせと勉強していたわけです。これも天意か、とあっさり教職課程を諦めました。いい加減でもあったと思います。
それに対し、内的な岐路というのもあったように思います。
例えば、生け花。何度か中断しています。その度に帰路に立っていたと言えると思います。どこにたどり着けるか、到達点が見えなかったのです。目標とする人も見当たりませんでした。お金や名声にもつながりそうにない。
しかし、ひとつくらい一生続けたと言えるものを持つことは大切なんじゃなかろうか。走り出したマラソンは絶対完走、これは自分に誓ってきたことですから、同じ態度でやり切ってやろうと。細々と、継続していければいい。こういうことで妥協してしまうと必ず後悔するだろうと思うのです。
こうした岐路というのは、外からやってくる岐路とは少し違うように思います。それについてはまたいつか考えてみます。
2022年5月31日
2022年5月18日
生け花とは何か?(1)
2022, International Journal of Ikebana Studies, Vol.9, 76 - 78
31 May 2022: Deadline - Hanadayori, Ikebana by Request
4 June 2022: Ikebana Introduction
10 June 2022: Ikebana Workshop at Richmond Library
18 June 2022: Ikebana Introduction
18 & 19 June 2022: Ikebana Display for Villa Alba Open Day
1 July 2022: 1000 Ikebana Challenge
31 August 2022: Ikebana Workshop at the Pub
10 September 2022: Ikebana Performance with Paul Grabowsky
https://www.ikebanafestival.com
10 & 11 September 2022: Wa Melbourne Ikebana Festival. https://www.ikebanafestival.com
2022年4月29日
新論文が掲載されました
生花道場に関する研究報告が出版されました。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ikebana/9/0/9_19/_article
外国人に生け花を教えるのはなぜこうも難しいのだろうと、数年間考え続けてきたことが、ようやく形になったように感じます。
2022年3月25日
千日挿花行
千日挿花行を提案し、広報中です。
生花を一日一作、千日続けてもらおうというものです。モデルは千日回峰行。その命がけの厳しさの足元にも及ばないでしょうが、生花修得には、多少の厳しさは必要ではないかと思います。
「簡単生花」「楽しい生花」「即興生花」。昨今、そんなものばかり目立ちます。商業的に成り立つためには必要なことなのでしょうが。
千日挿花行など、見向きもされないかもしれません。
それでも提案したいのです。
実は、「どうして多くの外国人は生花が修得できないのだろう」と何年も考え続けています。
自然観が違うのか。教材が悪いのか。動機がいけないのか(虚栄心を満たすためとか、金のためとかでやっても、まあ、無理でしょう)。教え方が悪いのか。生花の文化的な価値を本気で考えていないのか。
そもそも生花の指導方法をまともに考えている人がほとんどいません。研究報告などほぼ皆無です。
私は日本語教育に関しては大学院レベルで研究しましたが、日本語教育研究と比べると、生花教育研究など存在しない!と言っていいほどです。
例えば、豪州で日本語教師になるためには大学院レベルで数年間、日本語教授法の勉強をしなければいけません。日本語の勉強ではなく、日本語の指導方法の勉強です。日本語の能力と日本語指導の能力は全く別物。日本語能力だけでいいなら、日本人誰でも豪州の教壇に立てることになります。肝心なのは、指導力です。日本ですと、場合によっては、英語がネイティブだというだけで教壇に立てるということがあったかもしれませんが。
生花教師になるためには、生花の勉強は求められるでしょうが、生花指導方法の勉強までは求められないでしょう。というか、生花指導方法の研究自体、ほぼ皆無なのです。勉強の術がないのです。母語話者だというだけで日本の教壇に立つ外国人と同じような立場の方ばかりなのです。
ですから、私が直面する問題、「いかに外国人に生花を教えたらいいのか」、に対しては、自分で仮説を立てて、検証していくしかありません。
私の仮説ですが、おそらく現在の生花指導がうまくいっていない理由は二つあると思います。この二つとも近代生花(現在、主流となっているいくつかの華道流派)の成立に関係があるように思います。
ひとつは、生花が瞑想体験だということが身についていない。
もうひとつは、生花が稽古を要する、つまり、練習を積み重ねて体得していくものだということが理解されていない。
ですから、現在必要な指導方法の要諦は、第一に、「瞑想の教え方」を含むものであること、次に、稽古という身体的な(頭で理解するものではなく)経験を積み重ねていくものであること、でしょう。
私が主導している生花道場では、それら二つを目指して、生花美学プログラム(瞑想重視)、千日挿花行(稽古重視)という二つのプログラムを提供しています。かなり稀な試みではないかと思います。どんな成果が出るのか、楽しみです。
2022年2月9日
生花デモンストレーションの問題点
YouTubeなどでも生花デモンストレーションを気軽に視聴できるようになり、ありがたいですね。ただ、ひとつ気がかりな点があります。海外で生花を教えている者からすると、私の生徒など、誤解しかねないな、と思う点があるのです。
2022年1月13日
生花習得理論
言語学の中でも特に面白いのは、言語習得理論かもしれません。
60年代にチョムスキーが言語習得装置(LAD)なるものを想定して、どうも子供には言語を習得する能力が先天的に備わっているようだねえ、ということで、あれこれ研究が進んできました。
さらに、外国語は、それを実際に使う(コミュニーケーションする)必要があるという状況で、最も効果的に身につくんじゃなかろうか、という話にもなってきました。
コミュニーケーションしようと「実際に言葉を使うこと」が、習得につながる!
言葉は、「学んで」身につけるもの、ではなく、「使って」身につけるものだ、ということ。
この点はよく考えてみる必要があると思います。例えば、試験のため、世間体のため、など様々な理由で私たちは外国語の勉強をするわけです。しかし、おそらくもっと切羽詰まった事情があって、身につけなければ自分の生存に関わるとか、コミュニケーションできなければ、他の子供と遊べないなどという状況であれば、もっと迅速に言語は身につくのかもしれません。
そこに言葉の存在理由があります。
さて、生花ではどうでしょう?
何が「生花習得装置」に最も効果的なのでしょう?生花の存在理由、本質的な意義はなんでしょう?
言葉であれば、コミュニーケーション。実際の意味のやりとりです。(文法やら何やらを学ぶために言葉が存在するわけではないのです。当然ですが)
では、生花では?
なんのために生花をやるのでしょう?他者からの称賛、自尊感情の向上、見栄、賞状、金銭的な報酬、どうもそうした外在的な価値を求めている人の作品は、やはり、そこまでのもの、という感じがあります。
「どうだ、すごいだろう」と人を驚ろかすことに躍起になっていたり、綺麗さを求めるばかりで、やたらにうるさく、装飾的、少しも面白くないとか、そういう作品はよくあります。
そうではなくて、より内在的な価値を求めて、花を生けざるを得ないというような方の作品がやはり面白いのです。おそらく、単純に面白くてやめられないという方が、やはりいい作品を生み出しているようです。
この動機の違いを踏まえたところから、つまり、花にどう向き合うかと考えるところから、本物の華道論も始まるのだろうと思います。