華道家 新保逍滄

2022年6月20日

思い出すこと:人生の岐路

 


あれが人生の岐路、だったかな、と思うようなことがいくつかあります。いい歳になってくれば、どなたもそんな思いを持たれることでしょうが。

私にはどうも2種類の岐路があったように思います。

ひとつは、外からやってくる岐路、人生の分かれ道。こういう曲面に対し、私はとてもいい加減だったなあと感じます。特に後悔もしていませんが。例えば、大学進学。日本の国立大学に落ちたので、合格していた私大に進むことにしました。いくつか合格通知が来ていたはずなので、探しました。ところが、早稲田からの通知は見つかったのに、慶應のものが見つからない。これも天意かもしれない、と早稲田に進みました。

ただ、合格して嬉しかったのは、慶應でした。というのは英語の試験問題が最高だと思ったからです。受験の得意科目は英語でしたが、自分の力(それほどの力でもなかったですが)を存分に発揮できたと感じたのです。それに対しやりがいがなかったのは東大です。私が受験した年は唐突にも最長文問題に、論説ではなく、小説が出題され、全く歯が立ちませんでした。小説読解は準備ゼロでした。その時点で落第は決定。もう自分の人生には意味がないとまで思い詰めたものですが、今となっては笑い話です。同様にやりがいがなかったのは早稲田の問題で、「こんな問題を解くために何年も受験勉強してきたのではない」などと生意気なことを思ったことを覚えています。

もうひとつ。大学で教職課程をとり、受講し、試験まで受けたのに、成績がついてこない。問い合わせると、私は講座の登録手続きに不備があり、受講資格がなかったとのこと。未登録の授業に出て、せっせと勉強していたわけです。これも天意か、とあっさり教職課程を諦めました。いい加減でもあったと思います。

それに対し、内的な岐路というのもあったように思います。

例えば、生け花。何度か中断しています。その度に帰路に立っていたと言えると思います。どこにたどり着けるか、到達点が見えなかったのです。目標とする人も見当たりませんでした。お金や名声にもつながりそうにない。

しかし、ひとつくらい一生続けたと言えるものを持つことは大切なんじゃなかろうか。走り出したマラソンは絶対完走、これは自分に誓ってきたことですから、同じ態度でやり切ってやろうと。細々と、継続していければいい。こういうことで妥協してしまうと必ず後悔するだろうと思うのです。

こうした岐路というのは、外からやってくる岐路とは少し違うように思います。それについてはまたいつか考えてみます。

Shoso Shimbo

ページビューの合計

Copyright © Shoso Shimbo | Powered by Blogger

Design by Anders Noren | Blogger Theme by NewBloggerThemes.com