華道家 新保逍滄

2020年3月26日

自由花における詩性とは何か?(2)


とても大きなトピックを選んでしまいました。

第1回目は以下です。

どこかへたどり着けるのでしょうか?
一般に、あれこれ難しいことをつぶやきながら、結局、何のまとまりもなく、しり切れとんぼ、などということはよくあるようです。
ブログとはその程度のものが多い。

幸い、私の場合、一つの論文程度のものにはかろうじてたどり着いていますから(拙いながら)、続けてみようと思います。時間はかかるかもしれませんが。

以下は前回書いたことへの補足です。

以前このブログのどこかでも書いたことがあると思うのですが、
生け花と芸術の違いについて確認しておきます。

生け花と芸術(具体的には彫刻など)の違いは、
俳句と小説の違いに似ています。

有名な俳句、何でもいいです。
古池や蛙とびこむ水の音
動と静の対比、見事に詩性が達成できているように思います。
その面白さ、そこに立ち現れる世界、おそらく多くの日本人が共感できるものだと思います。感性的な面白さを狙っているのでしょう。

小説とは少々目指すものが違います。
小説は意味生産装置です。

俳句 / 小説
生け花 / 彫刻

生け花とは俳句的であり、彫刻とは小説的です。
つまり、生け花が詩性を求めるのに対し、芸術としての彫刻は意味を求めるということ。
生け花は限られた場合でしか意味が問題にされないので、一般には芸術には含まれないと言っていいと思います。

しかし、ただのクラフトか、ただのデザインか、となると、その領域を超えています。

例えば、アップルのロゴ。
とても洗練された、計算されたデザインです。
ある種の詩性に近いものはあると思います。

しかし、生け花は自然素材を扱うということ、
その扱いにおいて作者の態度が表出されるというところが特徴です。
そこがデザインを超えていく部分です。
詩性が生まれる部分です。

重要なのは、作者の態度、感性。
するとそれを磨く過程、修行ということも重要になってきます。
そこに、環境美学、さらに倫理の問題も重なってくるのではないか、
そのあたりを考えているところです。

俳句が日本文化圏で発達したということと
生け花もまた日本文化圏で発達したということにも注意が必要かもしれません。

生け花を外国人に教える難しさには
俳句を外国人に教える難しさに共通するものがあるのかもしれません。

2020年3月24日

自由花における詩性とは何か?(1)


日々、生け花を教える中で出会う疑問を出発点に、じっくり考えていくと、
思いもしなかったところまで考えが及ぶということがよくあります。
例えば以下のような具合。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/12/blog-post.html

毎度のことながら、「外国人に生け花を教えるのは難しい」と思います。
特に、自由花。
基本形を終えて、自由花に移ると、時に、めちゃくちゃになる人が出てきます。
単に強いだけ!
単に個性的なだけ!
単に綺麗なだけ!

何かが欠けているのです。
原因はなんだろう?対策はどうしたらいいのだろう?

まず出発点は、自由花とは何か、ということでしょう。
自由花が提唱されてそろそろ100年です。
その本質の定義も有効な指導方法も確立されていい頃だと思うのですが、
まだそうなっていないように思います。

この辺の議論は置いておきます。また別の機会に考えます。

私の生徒作品を見て、「何かが欠けている!」と感じることが多いわけですが、ここから話を始めます。
欠けている「何か」とは何でしょう?

一言で言えば、詩性です。

ここで生け花とは何かという話を踏まえないといけないでしょうが、それも置いておきます。私は生け花は芸術だという意見には同意できません。問題は「生け花は芸術だ」という方の「芸術」の定義が私の芸術の定義とは異なる点。私は村上隆の芸術論が面白いと思います。彼は「闘争」していますが、私は生け花の世界で不毛な「闘争」をするつもりはありません。

実は、生け花はクラフトだとしたほうが説明しやすいと思っています。
生け花とは一般的には視覚的形態上のデザインを研ぎ澄ませて、詩性をつかもうとするもの、ではないか。
とすると、それはクラフトです。
特殊なクラフトですが、芸術とは言えません。
芸術のようにコンテクストが問題になるのは限られた特殊な場合のみですから。

さて、詩性です。
それは何か?

詩性のない生け花作品とは、すなわち生命のない作品。
生け花とは言えないでしょう。
山根翠堂は死に花と言いましたが、多分、その通りです。

では、どうしたら詩性を手にできるのか?
どうしたら生徒はそれを体現できる力をつけてくれるのか?

ここで自分自身、なかなか掴めないでいるもの、つまり詩性を
教えられるのか、という困難な問題にぶつかってしまいます。
続きは、また、いつか考えることにします。

かすかにひらめいているのは、生け花における詩性を、
環境美学と環境倫理の接点上に定義づけられたら面白いだろうな、ということです。

自由花における詩性とは何か?
なかなか大きな問題です。

2020年3月9日

いけ花とモダニズム:自由花の確立に向けて



華道史の中でも、1920年代からの数十年間は、私にはとても興味深い時期です。
生け花人口は増えていく、
新しい流派が次々生まれる、
生け花戦国時代などと名付けた方もありますね。

西洋モダニズムの影響を受け、生け花はこのままではいけないと、重森三玲の元に勅使河原蒼風、小原豊雲、中川幸夫らが集まって、生け花改革を目論んでいたり、新しい自由花に異を唱えるグループがあったり。いつか自分なりに辿ってみたいと思っています。

今、思いつく仮説がいくつかあります。きちんと検証していかないといけませんが。
「自由花の成立には生け花の原点への回帰という性格があったのではないか」

つまり、生け花に西洋流の芸術の方法を取り入れ、自由花を確立しようという試みは、生け花の本質の探求を推進はしたけれど、最終的に生け花の西洋化はもたらさなかったのではないか。

そんなことを考えつつ、書き始めた日本語のエッセーは以下の通りです。

このブログでも「専応口伝の謎」として何度か書いたトピックです。

続きは、「いけ花文化研究」第8号に掲載される予定です。
自由花の提唱者が主張した「生命」を東洋思想史の中で捉えられないかと思っています。ただ、そう思った途端、困難がもやもやと思い浮かびます。

しかし、モダニズムにさらされ、生け花をどうしよう、
どうしたら当時の現代的な課題に答えられるのか、と華道家たちが熱く燃えていた時代があったのです。そこが私には面白いのです。

現代はどうでしょう。
ポストモダンの時代にあって、喫緊の現代的な課題ははっきりしているのに、生け花からなんの提案もない。安穏としたものです。

もちろん、私に生け花の現状が全て分かっているわけではないのです。
むしろ、何も分かっていないと言われても仕方ないほどですが。

管見ですが、モダニズムの時代に有効であった古臭い提案を繰り返すだけだったり、威厳のあるような態度を作ることに専心し、それが傷つきはしないかと汲々としているだけのように思えます。

それが最も露わになる卑近な例は、コンクールなどに対する嫌悪あるいは過剰な反応。結局、怖いのでしょうか。瑣末なことなのになあ、もっと大きい問題があるのになあと思います。とはいえ、攻撃的になるのでなければ、問題はないのですが。

Shoso Shimbo

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