華道家 新保逍滄

2020年4月19日

分からない理由:重森三玲をめぐって


都市封鎖中のメルボルンですが、私の日常は相変わらず。
半日は論文作成に、半日は生け花作成に。
いろいろあってその通りにはいかないのですが。
ともかく、論文の締め切りがあるので、研究は続けています。

先頃、探していたトピックについての論文がようやく見つかりました。
「重森三玲の作庭思想における『自然』に関する言説について」
上野友輝、河内浩志、秦明日香
日本建築学会計画系論文集(2018年)

重森は戦前の「新興いけ花宣言」起草の中心人物。
彼の思想をもっと探りたいのです。

期待に胸を膨らませて読んでいくと、これが分からない!
原典の引用、それについての論者の解説が延々と続くのですが、
重森の言葉は理解できるのに、論者の解釈が理解できないのです。

例えば、
「自然が永遠の存在であることによって、自然を基本とする庭は永遠である。
永遠を作り出す作者も、同時にこの永遠を目指しているのである。
・・・作者が何かしら永遠に生きようとしてる態度が永遠のモダンとなったのである・・・」

ここで重森は自然という形而下の存在と、永遠、あるいは永遠のモダンという形而上学を対比させて自分の美学を説明しているのです。

ところが、上野らの論文は以下のように説明します。

「重森が捉える『永遠のモダン』とは、永遠に生きられる作品を作り出そうとする作者の態度のことである」

態度?
態度ということはないでしょう。

重森の原典を熟読すれば、作者の態度が永遠のモダンとなる、つまり、態度すなわち実存的な作者のあり方が、永遠のモダンという美学に昇華されると言っているのであって、態度=永遠のモダンではありません。日本語の読解力不足レベルの誤解です。これでは重森の美学は無視されてしまいます。

さらに、1940年代、50年代、60年代に出版された彼の論説を
同一の論理上に位置付けようとしています。

数十年間に渡る重森の言説において、例えば、「自然」という言葉が、全く同じ意味で使われているという前提で分析され、結論づけられています。
これも無茶な前提です。

2日ほど、「これは何だ?」と考えました。
なぜこの論文は分からないのだろう?
こんな経験は、長年、学問の世界に片足だけつけてきた私にも初めてのことです。

結局、現在の私の結論は「この論文はひどすぎる!」。
この論者、福井大学助教授、博士課程の学生の方々には申し訳ないですが。

おそらく、彼らは意味論の基本を無視しているのだと思います。

例えば、Analyzing meaning, Paul Kroeger (2018)という意味論の入門書の冒頭では、以下の二つの違いを区別することが意味論の出発点だとしています。
sentences  vs. utterances 
文字通りの言説 対 発話
発話(日本の学会でどのように訳出されているのか調べていませんが)の意味は、その文字表現だけ見ていても分かりません。文脈を含めて理解に努めないと意味は伝わりません。

この論文の欠点は言説の文字表現だけを見て解釈を試みている点でしょう。
意味論の基本も、哲学の基本も無視した稀に見るハチャメチャな論文です。

と批判するだけなら、容易ですが、
どのように建設的に、私の論文に組み込んでいくか、
重森という巨大な思想家を私のいけばな論にどう位置付けていくか、
大変な作業です。

2020年4月14日

日本のコロナ対応が心配で仕方ない


コロナについては私は全くの素人。
それでも日本の対応の遅れは心配でした。
ようやくの緊急事態宣言。
それでも、まだ心配で、以下のような専門家の意見に共感します。

https://diamond.jp/articles/-/233957?fbclid=IwAR20Uay8DflC1kG3372TKXupiXFEaYNwDDbBUTA582CGdBlHJ7SUPUS2UKE

https://www.covid19-yamanaka.com/index.html

私は喫緊の事態については何も言えないのですが、なぜ日本ではこんな危機感の欠けたことになっているのだろうか、ということには思いつくことがあります。いずれも仮説ではありますが。

一つは、インフルエンザ類への対応とSARS類への対応が、根本的に異なるということが、特に指導層に理解されていないのではないか。感染力が全く違うのだそうです。SARSでひどい思いをした台湾、韓国、香港などは比較的に早めの対応が取れていたように思います。日本にはそうした経験がなかったということが一つの問題点でしょう。今回、一つの教訓を得るために大きな犠牲を払うしかないのでしょうか。他国のように医学の専門家を重要な政策決定に参画させるというようなことはできなかったのでしょうか。

もう一つは、いわゆる「平和ボケ」という要素はないか?「コロナ?対岸の火じゃないか。そんな忌々しい話は聞きたくない、暗い話は口にするのも嫌、もっと心楽しくなることに心を向けていたい」というような風潮があるのではないでしょうか?
これは平安時代の貴族の意識に似ているように思えます。危険、汚い、きつい仕事は他人任せ。紛争やら疫病やら忌まわしい話は口にしない、口にすると言霊が悪を呼ぶというような意識を持つ方が少なからずあるのではないか。もちろん、これも私の仮説。見当違いかもしれません。

さらに、日本のマスコミ、報道のレベルの低さ。これが今回の事態を悪化させている一因のように思えます。例えば、上記のリンクのような専門家の意見、経験をいったいどれだけのマスコミが取り上げているでしょう?海外の惨状のレポートがもっとあってもいいのではないでしょうか?

あるいは、コロナの死者数なんて大したことではないという医療関係者もあるようですから、そうした方々の意見も紹介してもらってもいいでしょう(もしかすると巧妙に論理をスリ違える、不純な動機で書かれた政治的なデマかもしれませんが。デマ記事の特徴は、ある事柄を不当に過小評価し、ある事柄を針小棒大に過大評価することです。)。

現状は、元スポーツ選手がああ言った、漫画家がこう言った、芸能人らしき人がこんなコメントをした、とか。素人の井戸端会議。ジャーナリズムとは言えません。
こんなことをやっているのでは、従来のマスコミは終わったと、間もなく多くの方が気づくことでしょう。政治批判も仕方ないでしょうが、意地の悪い、恨みを込めたような汚い罵倒の言葉での批判が多すぎます。批判する方もかなり洗脳されているのではないでしょうか。

ともかく、もっと必須のニュースがあると思います。
どうしたら犠牲者の数を最小限にできるのか、
どうしたら医療崩壊が防げるのか、
ということに焦点を当てるべきです。

さらに、マスコミ関連では、コロナについてコメンテーターと言われる方があれこれ言っていますね。その内容も私には少し気になります。
日本人は体質的にどうも感染しにくいのではないか、
日本人は衛生管理が行き届いているからひどいことにはならないだろう、
日本人は民度が高いからきっと最悪の事態を回避できるだろう、とか、
その通りならいいな、と思います。

先の大戦で、敗戦間近になっても、今に神風が吹いて事態が一変するのだ、と信じていた方があったように聞いています。それにどこか共通する根拠のない楽観主義が日本を支配しているのではないでしょうか。

2020年4月9日

外国人に生け花を教える難しさ(4)


海外で生け花を教える苦労について、あれこれ書いてきました。
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/09/blog-post_3.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2018/11/blog-post.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com/2019/11/blog-post.html

今回はもう一つの重要なこと。あまりはっきり語りたくない方もあるでしょうが、お金のこと。お金に関して私が難しいなと思ったこと、反省したことなどを少しだけ紹介します。

おそらくお金を儲けようと、それが最大の動機で生け花指導をするという人はあまりないでしょう。第一、それほど儲かりません。他にもっと楽に儲かる方法があるでしょうね。

主要な指導動機の一つは、生徒と親しい関係、協力的な関係を楽しみたいということだと思うのです。私が、現在、自分の人生を豊かにし、支えてくれている女性三人を挙げるとすれば、母親、家内、仕事上のパートナー、となるでしょうが、四人目以降には私の生け花の生徒さんらが続きます。そうした良好な関係を長く築いていくために気をつけるべき点はたくさんあります。やはり、品性下劣、他人の悪口ばかり言っているというような先生からは誰も習いたくないでしょう。

そして、そうした先生の態度や生き様とともに、もう一つ重要なのは、お金のこと。
注意しないと生徒との関係を傷つけることにもなりかねません。
私自身、苦い思いをしつつ学んだことがいくつもあります。
生徒の方で配慮してくれ、などという態度は通用しません。
日本とは違います。

特に、指導料の設定には苦労してきました。
何度も改定しています。
どれほど苦労して詳細に決めても、どこかに抜け穴があったり、
思いもしない解釈をされたり、
生徒へのやむを得ない場合の「特例のサービス」(お情けというか配慮)のつもりが、生徒からは「権利」のような解釈をされたり。
言わなくてもわかってもらえる、などということはありえません。

生徒から誤解が出る、2通りの解釈が生じるなどというのは100%先生の責任と思うべきです。ですから私は生徒を非難はできない、自分の責任と覚悟はしていますが、難しいと思うことが多いのです。
生徒のためにと思って、サービスを与えたり、寛容になればなるほど、結果的に、期待していたのとは反対の、落胆するようなことになることが多いように思います。お金を頂く者がそんなことを言っても、愚痴にしかならないでしょうが。
海外ですから、お金に対しては厳しい方が多いのは当然。
日本と同じような態度ではいけないでしょう。

また、日本の芸道の世界では当然とされているような先生に対する敬意や礼儀は、残念ながら海外で教える私たちは享受できない、と思ったほうがいいようです。
「何を偉ぶっているんだ?正規の学位があるわけじゃない、たかが花のインストラクターじゃないか」と、実際、そこまでは言わないでしょうが、その程度の認識と覚悟することも必要でしょう。

ともかく、お勧めしたいのは、料金体系はできるだけシンプルであること。
特例やら割引やら、そうしたことは好意であっても、おそらく誤解の元。
提示した、決まった額を淡々とビジネスライクに頂く。それだけの方がいいと思います。

最近経験した問題点を一つ紹介しましょう。
少し長くなるかもしれないので、また、次の機会に続けます。

Shoso Shimbo

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