都市封鎖中のメルボルンですが、私の日常は相変わらず。
半日は論文作成に、半日は生け花作成に。
いろいろあってその通りにはいかないのですが。
ともかく、論文の締め切りがあるので、研究は続けています。
先頃、探していたトピックについての論文がようやく見つかりました。
「重森三玲の作庭思想における『自然』に関する言説について」
上野友輝、河内浩志、秦明日香
日本建築学会計画系論文集(2018年)
重森は戦前の「新興いけ花宣言」起草の中心人物。
彼の思想をもっと探りたいのです。
期待に胸を膨らませて読んでいくと、これが分からない!
原典の引用、それについての論者の解説が延々と続くのですが、
重森の言葉は理解できるのに、論者の解釈が理解できないのです。
例えば、
「自然が永遠の存在であることによって、自然を基本とする庭は永遠である。
永遠を作り出す作者も、同時にこの永遠を目指しているのである。
・・・作者が何かしら永遠に生きようとしてる態度が永遠のモダンとなったのである・・・」
ここで重森は自然という形而下の存在と、永遠、あるいは永遠のモダンという形而上学を対比させて自分の美学を説明しているのです。
ところが、上野らの論文は以下のように説明します。
「重森が捉える『永遠のモダン』とは、永遠に生きられる作品を作り出そうとする作者の態度のことである」
態度?
態度ということはないでしょう。
重森の原典を熟読すれば、作者の態度が永遠のモダンとなる、つまり、態度すなわち実存的な作者のあり方が、永遠のモダンという美学に昇華されると言っているのであって、態度=永遠のモダンではありません。日本語の読解力不足レベルの誤解です。これでは重森の美学は無視されてしまいます。
さらに、1940年代、50年代、60年代に出版された彼の論説を
同一の論理上に位置付けようとしています。
数十年間に渡る重森の言説において、例えば、「自然」という言葉が、全く同じ意味で使われているという前提で分析され、結論づけられています。
これも無茶な前提です。
2日ほど、「これは何だ?」と考えました。
なぜこの論文は分からないのだろう?
こんな経験は、長年、学問の世界に片足だけつけてきた私にも初めてのことです。
結局、現在の私の結論は「この論文はひどすぎる!」。
この論者、福井大学助教授、博士課程の学生の方々には申し訳ないですが。
おそらく、彼らは意味論の基本を無視しているのだと思います。
例えば、Analyzing meaning, Paul Kroeger (2018)という意味論の入門書の冒頭では、以下の二つの違いを区別することが意味論の出発点だとしています。
sentences vs. utterances
文字通りの言説 対 発話
発話(日本の学会でどのように訳出されているのか調べていませんが)の意味は、その文字表現だけ見ていても分かりません。文脈を含めて理解に努めないと意味は伝わりません。
この論文の欠点は言説の文字表現だけを見て解釈を試みている点でしょう。
意味論の基本も、哲学の基本も無視した稀に見るハチャメチャな論文です。
と批判するだけなら、容易ですが、
どのように建設的に、私の論文に組み込んでいくか、
重森という巨大な思想家を私のいけばな論にどう位置付けていくか、
大変な作業です。