華道家 新保逍滄

2021年10月31日

Zoom 生花道場、レベル3

 


生花道場はのんびりと続けています。

レベル1では、自由型でデザイン要素、デザイン原理を8回で導入。

レベル2では、基本型を復習しながらデザインの基本を8回再確認。

レベル3では、デザインから離れるということを目指して8回の予定。

ともかくこのコースの根本を作ってしまいたかったので、全24課程とし、一区切りしようと思っています。その後で、いろいろ改変していけばいいでしょう。

既存の生花コースとはかなり違うものになっているのではないかと思います。

なんと言っても体系的で、理論的に整然としています。

海外で生花を教えてきた私が経験した指導上の難しさをどう克服するか、その問題への一つの回答になっています。

レベル1、2はともかく、レベル3のコースに関しては、なかなか最終的な形が決まりませんでした。発表までにかなり時間がかかってしまいました。

いくつか論文エッセーを仕上げ、考え続けてきたことがようやく形になりました。

生花の自由型に関してはまともな教程は存在しないように思います。というか、きちんとしたものを提出した流派、指導者はいないのではないでしょうか?もちろん私は数千ある流派の教本を全て調べたわけではないですが。主要な流派の教本を見る限り、はっきり申し上げて、かなり雑です。海外の学習者のニーズには合っていません。履修してお金を払えば、師範やら教授やら様々な立派な称号はいただけるのでしょうが、本物の力がつくというわけではないのではないでしょうか。便宜的に、数合わせのために教程を組んでいるだけなのではないかと思われるものまであります。

また、既存の流派の教本を元に作った教程を自分の教程として販売している方もありますが、そこには新しいものを作って行こうという意志などほとんどありません。

さらに問題なのは、既存の教程を終え、指導者の立場になった場合、教える力が同時についているということがないだろうと思われることです。あのような全体像が不明瞭な教本で指導しようとしても、指導の方法について示唆は得られないでしょう。もちろん、例外的に教師として有能な方も稀に現れるでしょうが。

傲慢に聞こえるかもしれませんが、今後の、国際社会での生花のことを本気で考えるなら、この程度の批判は遠慮する必要はないでしょうし、許してももらえるでしょう。もちろん、生花の現状を批判する以上、批判されることも覚悟しないといけないでしょうが。

しかし、いくら自分でいい教程だと主張しても、「美術修士、教育学博士が作ったコースだ」などと(恥ずかしげもなく)宣伝しても、取り組んでくれる方がいない以上、意味がないでしょう。一人でも参加して下さる方があれば、続けてみて、改変しつつ、史上最強の生花コースにしていこう、この教程は今後、多くの生花コース改変のきっかけになるかもしれないよ、などとスタッフに大言壮語していました。

幸い広報初日に数件申し込みがあり、これなら参加者から色々声を聞きながら取り組んでいけるかな、と思っているところです。

2021年10月15日

外国人に生け花を教える難しさ(6)


外国人に生け花を教える難しさ、ということで何回か考えてきました。

https://ikebana-shoso.blogspot.com/search/label/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA 

その難しさの原因は何だろう、どうしたらあの独特で強烈な癖(失礼!)が矯正できるのだろう?と、あれこれ考えてきました。

ひとつのことを考えだすと、あれこれと仮説が出てきたり、あれやこれやとつながってきたりするのがいつものことです。すると、ひとつのエッセーができたりします。ちょうど著名なオンライン・ジャーナルからメルボルン生け花フェスティバルの広報を兼ねて、寄稿しないか、と誘われたので、以下のような記事を掲載してもらいました。よければ読んでみてください。


私のひとつの仮説は、生け花をデザインとして解析し、制作しようとするところから非詩的な生け花が生まれるのではないか、というもの。非詩的などと仮に名付けてみましたが、近代生け花の大家、山根翠堂なら「死花」と切り捨ててしまったかもしれません。

説明は難しいですが、生け花の花が造花と変わりないような生け花作品。あるいは、造花で作った方がいいのではないか、というような生け花作品でしょうか。

生命のない生け花、即ち詩性のない生け花ができるのはなぜか?

原因は、生け花はデザイン、つまり人為による知的な工芸品である、つまり、生け花は作者、人を表現するものだという考えに由来するのではないでしょうか。西洋のフラワーアレンジメントは、そうした考えに基づいているように私には思えます。

つまり、素材の本質(すなわち自然)を表現しようというのではなく、素材に「人が何をしたか」を表現したいということ。そこを面白がっているのです。作者が直感した自然、その深さではなく、人やそのテクニックが関心の対象なのです。西洋のフラワーアレンジメントの延長として生け花を学んでいるという外国人も多いのかもしれません。両者は根本に大きな違いがあると思いますが、どれだけの人がそれを認識しているでしょうか。

このような自然より人を優先する態度は、戦前、西洋モダニズムが日本に紹介された際、その中心思想のひとつとして日本の生け花界に影響を与えました。現在、西洋ではモダニズムは反省と批判の対象でしかないですが、日本の生け花の多くは、今だにモダニズムのアプローチの主張を繰り返しています。そろそろ目覚めて欲しいものです。正直なところ、私はうんざりしています。

しかし、ふと、思うのは、日本ではそれでいいのかもしれないということ。

日本人にいくら「人を表現しろ」と教えても、日本人は自然に、作品に「自然」が入ってくるのではないでしょうか。修行を積むにつれ、生きた花になっていくのではないでしょうか。

しかし、日本人には自然なこの推移が、外国人には難しいのかもしれないのです。
外国人に「人を表現しろ」と教えると、本当に、人だけになってしまい、死花のまま、なかなか生きた花にならないということではないか。

もし、そうだとすると、自然に対する態度において、日本人とは重要な違いがあるのかもしれない、などとまで考えてしまいす。

しかし、このような仮説自体、カルチャル・ナショナリズムと批判されかねない意見です。決して、あからさまに、うかつに公言してはいけません。そこは承知しつつも、どうしたらいいのだろうと、悩む日々なのです。

Shoso Shimbo

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