フランスの社会学者、Bourdieuの"The Rules of Art" は、手強い本ですが、名著とされています。私にとっては専門外の本ですが、自由花運動の分析の際、参考にさせてもらいました。その論考は、京都芸術大学から出版される書籍の一章に加えられるようです。
専門外のことに口を出すのはかなり怖いことだと承知していますので、いろいろ言い訳めいたことを言いたくなります。日本語版が入手できなかったので、英語で読み、それをもとに日本語で論文を書いた、などなどいろいろハンディがあったわけです。
ま、それはともかく、最近、気になった事があったので、ここにメモしておきます。いつか、もっと大きいものに膨らんでいくかもしれません。
Bourdieuの分析は、早い話、社会階層と芸術の嗜好が関連しているということ。上流階級が知的な純粋芸術、クラシック音楽を好み、中産階級、無産階級が大衆芸術、大衆音楽を好む。さらにクラシック音楽を好む子供が、気づくと上流階級に、ロックを好む上流階級の子供が成長すると無産階級に移行しているという原因と結果が逆転するようなことも起こり得ます。
嗜好というのは、思っている以上に不思議で、強力な力を持つものであるようです。
ただ、私が今、考えていることは、嗜好の問題として解釈していいのか。よくわからないのです。
それは、例えば、海外における生け花の現状についてです。
このブログで何度か書いてきましたが、日本人にはなかなか真似のできない生け花がよく存在します。失礼なことは書きたくないので、表現が難しいのですが、個性の強い生け花です。わかる方にはわかっていただけるでしょう。
それについてあれこれ考えてきました。この非詩的な生け花はどこから生じるのか、どうしたらうまく指導できるのか、と。さらに、自分なりの対応策を目指し、(私の考える)生け花の詩性を学んでもらいたいと、生け花コースまで作ってしまいました。
しかし、非詩的な花が多くの方に支持されるなら、そして、作者も満足、鑑賞者も満足、という状況なら、これをなんとかしようという私の立場に、意味があるのでしょうか?
例えば、ラップが好きだという若者に向かって、「そんなもの音楽じゃないよ。音楽の生命がない。モーツァルトを聞きなさい」などと言って笑われる老人に似ていないでしょうか?彼らにとっては、それこそが音楽なのです。新しい音楽として生きており、クラシック音楽はそこに音楽の本質があるかもしれないけれど、屍に過ぎない、興味はわかないということでしょう。
結局、他人の嗜好にあれこれ言っても仕方ないということでしょうか。海外における非詩的な生け花も生け花の新しい形なのかもしれません。
Bourdieuに戻ると、彼は、特定の芸術について、あれがいい、これがいいと議論し、闘争する「場」があって、そこからその時代に特有の芸術の定義が生まれるというようなことも書いています。
とすると、成り行き任せではなく、この生け花の「場」において、あれこれ発言してみる、批判してみる、そこに何か意味があるのかもしれません。たとえ敵を作ったり、嫌われたりするということがあったとしても。それは、先人も皆通ってきたプロセスなのです。