
「専応口伝」についてあれこれ考えてきたことがようやくまとまりました。と言っても一つの仮説です。想像に任せて書いてみました。学術的に認められるのか、定かではありません。独断と偏見!ということになるかもしれません。UC Davis の教授等、何人かに読んでいただいたところ、そこそこ面白いじゃないかということであるようで、「いけ花文化研究」に掲載されるようです。私が指摘していることは、「専応口伝」には生花の定義として二点、存在論的な定義と認識論的な定義が明言されているのに、なぜか認識論的側面が無視されてきた。「専応口伝」の定義する自然の象徴としての生花と、天地人を骨格とする生花(せいか)は、似ているけれど、微妙に異なっている。自然の形而上学的把握の有無という点からすれば、両者は異質なものだ。自由花運動は生花への西洋モダニズムの導入ということだけでなく、本人たちは気づいていないが、無視されてきた生花の本質の再興という側面があったのではないか。こんな奇論が出てくると、「花道史も面白いじゃないか」という方、さらには、「もっと研究してやろう」「反論してやろう」という方が出てこないだろうか、と密かに期待しています。実はこのエッセーは、構想している山根翠堂3部作の2つ目です。一つ目は昨年、Intenernational...