花道の歴史を見ていく時に、真を立てるか、傾けるか、つまり、立真か傾真か、を軸に考えていける、という意見があるようです。
それもひとつかな、と。
しかし、近代以前に限ることなく、現代までも含めた生け花の歴史を考えるならば、別の軸の方がより包括的ではないかと思います。
日本には、守破離という便利な言葉があります。
守、つまり型を守って行こう、あるいは洗練させて行こうという動きと、型を破って行こうという動き、守と破という軸で見ていってはどうかなと思います。
例えば、投げ入れの登場は、立花という守に対して、破の立場であった、
自由花の登場は、天地人様式に対する、破の立場であったという具合です。
そのように考えていくと、離のあり方、というのが気になるところです。
それは、通常、修行過程の時間的・段階的なモデルにおいて、まず型を学び、それを壊し、型を離れた成熟の境地ということになるのでしょう。
しかし、守破という対立そのものが、修行という概念に基づく家元制度と結びついたモダンまでのいけ花のあり方を示唆するのではないか。ポスト・モダン的な生け花のあり方からすれば、時間軸を離れて、いきなり離を目指すというあり方もあるかもしれません。
最近、そのような、生け花のあり方自体を問い直すような動きがあちこちで起こっていることに大変興味を覚えます。生け花の脱構築などということになるかもしれません。
そして、ふと思うのは、私が今まで書いてきた花道論は、多く英文で出版してきたためどうも読者が増えていかないのではないか(アカデミア・サイト内では上位5%に入っているらしいのですが、実感は無し)。日本でも、生け花に関心がある方は多くとも、それを学問的に考えていきたいうという方は極端に少ないでしょう。まして、外国では、生け花に関心がある方自体が多くはない。ここらで私の論考を日本文に訳し、まとめて発表してはどうかな、ということ。
勅使河原宏論、
自由花・山根翠堂論、
専応口伝論、
ガスコイン論、
生け花教授論、
生け花と環境芸術論、
生け花とポストモダンなど。
出版社があるのかなあ、というのが次の大きな問題です。