華道家 新保逍滄

2017年12月31日

一日一華:オーストラリアのネイティブで


おなじみのクライアントさんから、ネイティブをたっぷり使ったアレンジの依頼。

前回書いた新しいレンズを使って撮った写真です。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/12/blog-post_28.html

ブログ用にかなり縮小しています。
こんな写真が撮れるなら、高い値段も受け入れられるような気がしています。


2017年12月28日

デジカメ決定版:試行錯誤の果てに



過去、10年ほど、カメラとレンズにはおそらく100万円以上つぎ込んできたと思います。カメラは6台、レンズは6本。本も10冊くらい買っています。あれこれ合わせると200万に近いかも。

写真は素人です。

しかし、華道家としてできるだけいい花の写真を撮りたい!
できれば出版に適する程度のものを。
その一念でこれだけの出費。

この度ようやく最適のカメラ+レンズに出会えました。

写真を撮るたび、「おー!」と興奮しています。
上の犬の写真は、この度の新しいレンズで最初に撮った写真。
なんという明るさ。
犬の瞳の中までカリカリに撮れています。
こんなレンズが欲しかったんだ!

ここに至って、気づいたことを書いてみます。素人のカメラ案内です。

1、写真はレンズ。写真の質を決めるのはレンズです。
高いカメラを買っても、安物のレンズをつけていたのではお金の無駄。
それを私はやってきたのです。

もし、これから一眼レフカメラを購入しようかという方がいらっしゃったなら、ご注意下さい。最高のレンズ+必要最低限のカメラがお勧めの取り合わせです。

生花作品は静物ですから、天体写真やスポーツ写真がうまく撮れるという高級カメラである必要はないのです。高級カメラの機能の多くは私たちには不要です。

2、プロや専門家のアドバイスは有益だけれども、私のニーズには最適ではなかったということ。

・室内での撮影が多い(明るいレンズがいい)
・被写体との距離が取れないことが多い(広角が望ましい)
・花作品のサイズは大きくて4メートル位。
・静物である。

こうした条件に合うレンズ。

こうしたニーズがはっきりしていればもっと適切なアドバイスが頂け、お金を無駄にすることもなかったでしょう。「クリアな描写」「幅広いジャンルで使える」「高性能なレンズ」などという宣伝文句に惑わされてきました。

3、華道家に必要なのは次の1本だけです。究極の1本。

AF-S Nikkor 24mm 1.4G ED。
希望小売価格 ¥307,800。
詳細のレビューは次でどうぞ。http://kakaku.com/item/K0000089613/?lid=ksearch_kakakuitem_image
http://www.nikon-image.com/products/lens/nikkor/af-s_nikkor_24mm_f14g_ed/

私はオンラインで約20万円で購入しました。
カメラはニコンD800です。発売されてすぐに買いましたが、当時、30万円以上したと思います。
ですから私の現在のデジカメは50万くらいかかっています。

しかし、D800は現在、10万以下で購入できるようです。
とすると、私と同じ組み合わせは、現在、約30万。

試行錯誤がなければ30万で済んだのに、
200万円もかけてしまったというお話でした。
私のような無駄をしないようご注意下さい。

4、繰り返しますが、まずは、レンズ!です。
プロ用のレンズを手にはしましたが、素人の悲しさ。まだまだ使いこなせていません。

2017年12月14日

一日一華:思いつきと論証


ある種の本は、いろいろな思いつきをもたらしてくれます。
私の場合、特に、哲学や心理学の入門書のようなものを読んでいると、自分の思考が刺激され、いろいろな空想、仮説が浮かんでくることがあります。
ある事柄と別の事柄との間に繋がりが見えてくることもあります。

例えば、ボードリヤールの資本主義解釈と村上春樹の世界観に関連性が見えたり。
生け花における立花と生花の対比は、日本文化における根源的な二元的な対比と対応しているのではないか?とか。

重要なのは、その思いつきやひらめきをどう発展させるか、でしょう。
それをいかに論証するか。

例えば、マルクスが社会の発展を資本という観点から説明した時、
「違うんじゃないかな」と思いついた人はきっと多かったと思うのです。

しかし、それをきちんと論証する人が出てくるまでは、思いつきはただの仮説。大した価値はない。破壊力も、生産力もない。

ところが、レビィ・ストロースが未開社会の思考は決して暗愚なものじゃないんだということを論証したことで、早い話、マルクス主義はボロボロになってしまうのです。

もちろん、それほどの業績は時代の最高の知性に委ねるしかないのかもしれませんが、現代芸術について考えていくと、同様の挑戦を求められるのではないか、という気がしています。特に、環境芸術を考えていくと。

2018年、3月に予定されている2回の講演までは、何かまとまった考えができるといいのですが。
http://lornesculpture.com/speakers.php
https://acah.iafor.org/speakers/

2017年12月8日

21世紀的いけ花考 第65回



新興いけばな宣言(1933)を一つの契機として、生け花は大きく変わっていった、という話でした。一言で言えば、モダン芸術の影響を受けたわけです。その影響は現在まで続いています。現代生け花の課題を国際的な文脈で考えようとすると、様々な疑問が生じてきます。それらをおいおい考えていくことにします。

1、モダニズムとはどんな主張だったのか?ここでの話の流れでは、なぜ精神修養としての生け花が否定されねばならなかったのか?
2、前衛生け花はそこから何を学び、生け花をどう変えたのか?その成果は何か?
3、モダニズム芸術は、今や過去のものとなり、その歴史的役割を終えている。現代芸術の主流は(モダニズム芸術の要素を含みながらも)ポスト・モダニズム。では、生け花はどうか?モダニズムの影響を受けた草月、小原などは歴史的な役割を終えているということにならないか?そこを検証しては?ということ。断定でも批判でもないです(短絡的な人から襲撃されないといいのですが)。
4、生け花にポスト・モダンの要素を取り込み、その課題に取り組むことはできないのか?つまり、生け花で現代芸術がやれないのか?
5、西洋文化圏の方が生け花を学ぶ時、西洋化した生け花をどうとらえているのか?前衛生け花が否定した生け花の伝統的な要素(日本人の伝統的な花への態度など)はどう受け取られるのか?


上記4への私の取り組みの例として、Yering Station 彫刻展で ABL賞を受賞した「鯨の胃袋」を紹介します。生け花的要素もあれば、非生け花的要素も。前者については、華道家の感性は容易に指摘できるでしょう。


特に今回は作品が生命を獲得する、その瞬間が強く意識できました。それは生け花ではよく感じること。花1本を生けるだけでいいこともあります。そこから葉を取り除いたり、他の花を加えたりして、作り込んでいくと、ある瞬間に作品が自分の物語を語りだした、と感じることがあります(これはお手本通りに生けるのが生け花と思っている人には得られない経験)。今回、同様の経験をしました。


プラスチックバッグの塊を作ってみると、白、ピンク、黒と色のコントラストが強すぎ。全体を青いシートで包むとずっと効果的。それを金網で包んだのですが、物足りない。金網を手で鷲掴みにすると、面白いシワが表面に出来ました。これはいける、と設置直前の3時間猛攻撃。そこで「作品になった」と感じたのでした。この作品については今後、別の文脈でも触れることになるでしょう。

2017年12月4日

Practice-led Research とは何だろう


Practice-led Research (PLR) について考えています。
約4ヶ月後、環境芸術と生け花について2回の発表を行います。
どちらも聴衆は大学関係者がメインの会議。
半端な発表はできません。

PLRは、芸術学部の大学院レベルで主流の研究方法になるでしょう。
芸術学部での博士課程は、まだ導入に踏み切れていない国が多いようです。
芸術における学問的な方法論が脆弱だからでしょう。
ところが、PLRには少しばかり可能性があります。

私自身は教育心理学で博士号を取っています。
ガチガチのQuantitative Research です。
仮説を立て、統計で検証し、有効か否か、数値で示します。

それに対し、Qualitative Research も、科学かなあということで
ゆっくり認められてきました。
今では、それも過去の話。
人類学、民俗学、社会学、教育学など多方面で優れた業績が上がっています。

芸術にもQualitative Researchなら、使えるのではないか、と多くの方は考えました。
というか、それがほとんど唯一、芸術を科学する方法論だろうと私は思います。
そこで、PLRです。

私の関心は、その方法論。そして今までの成果。
それを調べた上で、発表に繋げたいのです。

まだ、論文を漁り始めたばかりですが、方法論が曖昧なものが多い。
こんなに自分勝手にやって、認めてもらえるのか?
博士号が取れるのか?
これでは日本の文芸評論ではないか。
こんなに主観を入れていいなら、自由で楽しいだろうな、とか。

しかし、私にはまだ方法論がはっきりしてきません。
それをはっきりさせるのが第1の問題。

私は方法論にはうるさい、つもりです。
人文でも方法論がいい加減ではまともな研究にはなりません。
そうそう、博士課程の研究方法の授業では、私は高い評価をもらったものです。
外国人の私には珍しい経験でしたので、よく覚えています。
詳述はしませんが、毎週、ひとつの論文を選んでは、バリディテイ、リライアビリティなどにつき徹底的に分析するというような面白い授業でした。
担当教官が、私ごときを自分が教えた学生の中で最高の学生だ、とまでおっしゃって下さいました。先生はあまりいい学生に恵まれてこなかったのでしょう。

また、科学であるためには知が蓄積されていくことになります。
環境芸術における現在までの研究はどこまで来ているのだろうか?
これが第2の問題。

Shoso Shimbo

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