華道家 新保逍滄

2017年8月27日

一日一華:2017年いけ花ギャラリー賞


2017年いけ花ギャラリー賞がようやく発表になりました。
https://ikebanaaustralia.blogspot.com.au/2017/08/ikebana-gallery-award-2017.html

生け花学習者向けの(師範は除く)コンクールです。
ですから、師範の方々の作品と比べれば、多少未熟な点はあると思います。

でも、今年はレベルが上がってきましたね、と何人かの審査員に言われました。
それは大切なことだと思います。

何と言っても16000人超の方々が見て下さる受賞結果です。
年々、その数は大きくなっています。
その中には世界中の生け花学習者が多く含まれます。
多少とも参考になるような作品でないことにはこの人気も続かないでしょう。

通常、生け花学習者の作品がこれほど多くの方々の目に触れる機会はあまりないでしょう。
おそらく著名華道家の作品でもこの数はなかなか達成できないはずです。
そう考えると、この賞も特徴あるものになってきたように思います。
審査員の方々、私のスタッフのみなさん、皆、ボランティアでよく頑張って下さっています。改めてお礼申し上げます。

2017年8月21日

2017年8月13日

いけ花上達のコツ(3)


生け花上達のコツは、瞬発力と持久力でしょう。
それらについては、いずれもっと詳しく書くことがあるでしょう。
その時は、このタイトル、「上達のコツ」にもっとふさわしい内容になるはずです。

しかし、今は、少々別のことを考えています。

第1回目、2回目は以下のとおりですが、第2回目に書いた問題について、さらにあれこれ考えているのです。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/08/blog-post_9.html

つまり、生け花を外国人に効果的に教えるにはどうしたらいいのか?

この問題にきちんと対処するならば、
いけ花指導を国際的に展開する上でも、とても役立つはずです。

日本には、千以上の生け花流派があるようです。
海外展開を目指したいという流派も多いはずです。

おそらくそれはとてもたやすいことでしょう。

海外には習いたいという人が多いからです。
さらに、その需要に答える指導方法を確立している流派がないからです。
外国人にきちんと教えられる生け花教師を養成しようなどと真面目に考えている流派はないと私には思えます。間違っているかもしれませんが。

「英語ができればいいのでは?」
実際、それだけでは不十分です。

前回私が指摘した、教えにくい外国人生徒の典型的なタイプに
対応できる指導力についてきちんと考えている流派があるでしょうか?

つまり、作品に独特のクセがあり、
自分の作品の未熟さを謙虚に認めることがなく、
言葉で、訂正すべき点の説明を求めてくる。

海外で教えている方ならおそらく出会ったことがあるタイプではないでしょうか?
「こういうタイプにはいけ花は向かない」と切り捨てたくなりますが、
こういう方は、程度の差はありますが、とても多いのですね。

生け花流派が、その流派の家元やトップクラスの師範を海外に派遣することはよくあります。
デモをやったり、海外会員を指導をしたり。
それはそれで重要でしょうが、海外の生徒数を伸ばすことが目的であるならば、
上記のような教えにくい外国人生徒を上手に教える方法を指導できる講師を派遣して、
海外の教師に指導実習すべきです。

それが本当に流派の将来のためになる投資です。
生け花教師の作家としてのレベルアップも大切ですが、指導者としてのレベルアップがより重要なのです。

さらに、上級師範のテストというのがありますが、特定流派の場合ですが、私の知る限り、とてもお粗末なものです。
実習と筆記試験。実習はともかく、筆記試験の内容は、家元の言葉を自分なりに解釈しなさいというようなもの。
生け花、芸術についての小論文。
芸術大学の大学院レベルで学んだ人には容易すぎますし、
その家元の言葉について容易に歴史的な限界を指摘できるでしょう。
私の「21世紀的いけ花考」を読んでおけば、容易にパスできるレベル。

むしろ上級レベルの師範の昇級試験には次のようなテストはどうでしょう?

ある外国人生徒が作った作品を提示します。
そして、この作品を講評しなさい、と求めます。 
さらに、手直ししなさい。
その結果、どう良くなったか言語で説明しなさい、とやるのです。

実は、これこそ、海外で生け花を教えている私たちが日々直面している問題なのです。

しかし、また、手直しし、なぜそれが必要なのかを言葉で説明できたとしても、
おそらく、達成できるのは、目的の90%くらいまでだろうと思います。
つまり、バランス、コントラスト、リズム、パターン、ハーモニーなど様々なデザイン原理の共通の用語を用いて説明しても、生け花の9割程度しか説明できないのではないかと思います。

最後の1割は、言語でどうしても言いあわらせないだろうと思います。
それこそ、生け花がデザインを超える側面なのです。

今回書いた問題はとても大きいものですので、いつかまた、解説します。

2017年8月9日

一日一華:いけ花上達のコツ(2)


いけ花上達のコツについて再び。
第1回目は以下でした。
https://ikebana-shoso.blogspot.com.au/2017/02/blog-post_8.html

結論から始めれば、要は瞬発力と持久力ということだと思います。

第1回目に書いたことは、瞬発力について、ということになるでしょう。
1回1回の作品制作に際し、全力投球する集中力、瞬発力。
そして、そうした訓練を長く、何年も継続させる持久力。
陸上競技の短距離と長距離、それぞれに求められる力が必要なのだと思います。

それはそうなのですが、
外国人に教えるということでは、やはり独特の苦労があります。
前回、学ぶ態度の違いということを書きました。

結局、同じことなのでしょうが、手強い生徒が何人かいます。

多少下手でも、個人で楽しんでいこうという方ならそれでいいと思います。
私の指導もそれ相応で。

ところが、自分は指導者を目指す、とか、
いけ花をデザインの仕事に生かすのだ、とか、
とても動機が強い生徒の場合、きちんと学んで欲しいなあと思います。

すると、私も厳しくなるのですね。
となると、日本人ではありえないような指導上の難しさに直面することになります。

何でしょう、彼らのあの作品の独特のクセは?

説明が難しいのですが、私の日本人の生徒の場合、作品がとても洗練された感じがします。
弱点も見つけやすいですし、指導も楽。
自分の伝えたいことが、すっと受け取ってもらえていると感じることが多いです。

ところが、一部の(1割ほどですから、大したことではないのですが)外国人には、何度注意しても直らない特徴があります。生徒作品は、次のフェースブック上で紹介していますので、ご参照下さい。https://www.facebook.com/IkebanaGallery/

作品がうるさいのです。
色使いに品がないのです。
ただ強いだけ、繊細さがないのです。
あるいは、力がこもっていないこともあります。

これは、文化の違いなのだろうか、と思うことがあります。
美意識の違い、なのかもしれないです。

ある生徒は、くねくねした枝物をよく持ってきます。前回は梅でした。
確かに、素材は綺麗。それらをてんこ盛りにした上、足元を赤と白の椿で埋め尽くします。
初年度の生徒ならともかく、2、3年やっている生徒がこんなことでは!
と、珍しく腹が立ちます。
いけばなを教えて腹がたつなんて本当に珍しいこと。

椿を全部撤去しろ。
枝をもっと切り取れ、と。
もちろん、そんなに厳しくは言えないです。
怒りを隠して、やんわりと諭します。

しかし、
素直には従ってくれません。
テキストのサンプルはこうなっているとか、
枝のここが一番美しいのにとか。
自作を正当化します。

それに、理屈で対抗していかなければいけません。
こうなると、教えるのは楽ではありません。
時に、理屈で説明できなくても、ダメと感じることがありますし。
「ダメなものはダメだ!」と言いたくなりますが、
それで納得する相手ではないのです。

綺麗な素材を使っているのですから、
確かに、綺麗ではあります。

でも、生け花が目指す美しさは、もっと別のものです。

たとえば、ありふれた花材でも、雑草でも、
素材を組み合わせ、デザインする。
そこから美しさが生まれるのです。
美しさは、素材から直接生まれるのではなく、
作者が作り出すものです。

素材発の美しさではなく、作者発の美しさ。
それが生け花の美しさなのです。

学ぶ態度に謙虚さがないならば、徒労だろうな、とか、
下手で傲慢な師範を育てるよりは、やめてもらったほうがありがたいとか、
思い悩むことはありますが、
長く、忍耐を持って続けてくれれば、
いつか身につけてくれるのだろうと信じつつ。

そして、また、大部分の生徒はきちんと育っているじゃないか、
と自分を鼓舞してみたり。

結局のところ、伸びるか、伸びないか、
その違いは学ぶ態度にあるとよく思います。

ふと気付いたのですが、伸びる生徒はアジア系の生徒に多いようです。
それは師の教えを大切にしようという、儒教的な文化の影響でしょうか。
先生に反駁したりすることもないですね。
先生からするととても教え易い。
生け花などの芸事にはそうした態度が重要なのだろうと思います。

ところが、上下関係よりも横の関係を重視する文化圏出身の生徒の場合、
上記の通り、独特の苦労があるわけです。
教えにくい生徒はなかなか上達してくれません。

生け花の教師ほど楽しい仕事はないといつも皆に言っています。
それでも、瑣末な苦労があるのですね。

2017年8月6日

21世紀的いけ花考 第61回


 「生花は精神修行か」という話です。16世紀に池坊専応が「専応口伝」で、生花は仏教的な悟りに至る道だと言ってくれました。私たちはその言葉を頼りに励んでいるわけです。通念としても生花は精神修行だろうと多くの日本人が思っているでしょう。
 
 しかし、昭和8年、重森三玲が「生花は精神修行じゃない。道徳とは無関係だ」と宣言します。では、生花とは何か?芸術なのだ、というわけです。新興生花宣言と言います。これが日本の生花を大きく変えていくのです。
 
 昭和時代は生花史上、最大の激動期だったでしょう。「華日記ー昭和生け花戦国史」(早坂暁)という面白い本がありますが、これは昭和の華道界の混沌について。昭和初め自由花が初登場。これは革新的なことでした。10年頃に新興生花宣言。戦争のため生花は壊滅状態。戦後、生花人口急増。30〜40年代、空前絶後の生花ブーム到来。

 これらの流れは全て繋がっています。自由花、さらに芸術としての生花宣言があって、生花ブームが生まれるわけです。つまり、精神修行としての生花という側面は影が薄くなっているのです。重森の影響と言えるでしょう。今回の話をふまえ、重森の考えを、次回探ってみます。

 その前に、私自身のことを少し。おそらく、生花が精神修行だと確信できていたら、私ももう少し早くに本気になれたでしょう。生花に足のつま先をちょいとつけた頃、本当に生花をやって大丈夫かなと悩んだものです。現在、遠藤周作研究者として活躍している旧友にも不安を語ったことがあります。これを続けて、自分はどこに到達できるのだろう?人生をかけていいのか?後で「しまった」なんてことにならないか。「生花は道なんだから、大丈夫じゃなかろうか」「そうかな」というようなやり取りをした覚えがあります。共に確信はなかったと思います。私が長い間、フラフラしていたのも重森のせいかもしれないのです。
 
 さて、8月18日、国際いけ花学会会長、小林善帆先生の講演がメルボルン大学で開催されます。是非お越し下さい。

 また、私の生徒の師範取得者が増えてきました。彼女らに協力してもらい、救世軍と提携し、募金活動としての生花ワークショップを発案しました。生花史上初の試みかもしれません。私たちのワークショップを開催すると、1時間あたり$200の収益があり、$50募金できるという仕組み。カフェ、成人教育機関、美術館、図書館、教会などで活用してみませんか?
 
 今回、紹介するのは来年度用の無料カレンダーに選んだ作品。私のサイトからダウンロードできます。 


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