華道家 新保逍滄

2017年6月10日

鯨の巨大便(3):書評・柳澤桂子「すべてのいのちが愛おしい」(集英社)


以下は、生命科学者から孫へのメッセージと題された、柳澤桂子「すべての命が愛おしい」(集英社)の一節。著者はお茶の水女子大学名誉博士とあります。

「里菜ちゃんへ
鯨を食べたことがありますか?おばあちゃんの子供のころ、(略)よく食べました。(略)その後、環境保護団体から「鯨をとってはいけない」という圧力がかかりました。
鯨は賢くて優しい動物だからであり、野生動物なので絶滅しかねないからだというのです。
では、牛や豚は賢くないのでしょうか。環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。(略)
確かに鯨捕りは残酷です。でも鯨をとることで生計を立てている人もいました。そのひとたちは鯨捕りが禁止されると生活に困ることになるのです。今では鯨の肉を見かけることはほとんどありません。
生き物を食べなければ、私たちは生きられません。どんな動物だって、死にたくはないでしょう。食事をいただけることに感謝して、たいせつにいただきましょう。」

この本は不思議な本です。「すべての命が愛おしい」とあるように、全編、命のたいせつさが繰り返し語られます。ところが、相手が鯨になると、途端にそんな思いやりが吹き飛んでしまいます。「鯨以外のすべての命が愛おしい」としたほうがいいでしょう。

これはなんなのでしょう?
日本で捕鯨に反対すると立場が悪くなるというような空気があるのでしょうか?
私の知る限り、捕鯨推進派には、攻撃的で、感情的、相手の意見を理解しよう、議論しようという基本的な態度ができていない方が多いようには思いますが。こんな人と関わるくらいなら、黙っていようと思ってしまうのでしょうか?

おそらく、上に引用した一節は、大方の日本人に共感を持って読んでもらえる内容でしょう。一見、特に何の問題も無いようです。
しかし、よく見ると、様々な問題点を含んでいます。

環境保護団体の立場を、「牛や豚は賢くないのでしょうか」と批判しています。
しかし、「野生動物なので絶滅しかねないから」という部分には批判の言葉がありません。批判のしようが無いから逃げているのです。卑劣さが現れています。

「環境保護団体の人は、お肉を食べないようにしているのでしょうか。」揚げ足取りのような卑怯な論法。相手は、絶滅に瀕する野生動物は食べないと言っているだけなのです。それをあえて誤解したふりをして、「それじゃあ、あんたは肉を食べないの?何も殺さないの?」と、批判しているのです。相手を攻撃したいだけなのです。知的な会話ができる、誠意ある書き手ではないと分かります。

「鯨をとることで生計を立てている人」とありますが、捕鯨を行っているのは大企業です。江戸時代のような頼りない船で鯨を獲りに行っているわけではありません。腐りきった悪徳資本家がやっていることなのです。「生計を立てる」とか「生活に困る」という表現で、捕鯨をしているのが貧しい人たちであるかのようなイメージ操作をしています。

もちろん実際に捕鯨船で働いている人たちは、生計を立てるために従事しているのでしょう。しかし、捕鯨の仕事は体力的にも精神的にも極めて重労働だろうと思います。そうした体力、精神力があれば、他の領域でも十分活躍できるはずです。

「生き物を食べなければ、私たちは生きられません」だから、鯨を食べてもいい、と捕鯨を正当化しています。これも間違いです。短絡的すぎます。
絶滅に瀕する野生動物を食べなくても、人間は生きていけます。
存続可能な方法で、蛋白源をとりつつ生きていくのがまっとうなのです。
時代が違うのです。

さらに私の言う日本人特有の◯✕思考です。
国際的な視点が全く欠けています。国内でだけ、個人の頭の中でだけ通用する理屈です。
科学者として当然の、地球環境の破壊に歯止めが効かなくなっているという現状に対する真摯な洞察がありません。
読み手をマインドコントロールするのが目的で書かれているようです。
外国の人には、詭弁を使う人とみなされ、全く相手にされないでしょう。
それは無知か、さもなくば誠意が無い人間の特徴とされます。
このような本が出版されるのは間違っていると思います。

暗愚な捕鯨推進派の典型的な意見ですから(知的な推進派もあるのでしょうが)、
以前私が遠慮がちに書いた批判を再録します。
反論のひとつにはなっているでしょう。

提言:捕鯨論争における日本人の思考

「鯨を殺すなだと?羊を殺しているくせに。命を奪っているのだから同じことじゃないか」こんな議論をよく聞きます。その度、これではプロレスの場外乱闘だなと思います。リングの中で戦っていたのが、突然,一方が場外に出て、折りたたみの椅子を振り回し、相手をはり倒す。「どうだ、返答のしようがないではないか。こちらの勝ちだ」そんなイメージが浮かぶのです。

 文化の押しつけだの、国際法がどうのこうの。門外漢の私には判断のしようがない事柄ですが、皮肉や罵倒も含め多くの議論が場外乱闘状態。漁業関係者(大企業ですが)が可愛そうだ,などという感情論も横行。しかし、論点を整理して、同じリングに立って、つまり共通の認識を確認しつつ、議論を進めていけば、争点の核心も明確になり、それほど感情的になる問題でもないと思うのです。

 第一の共通認識:捕鯨、賛成反対双方ともまずは、人間の在り方の基本を確認しましょう。人間は他の生命を奪って生存するしか無い生き物です。殺傷が罪だというなら人間は罪な存在です。100人のうち99人くらいまではこの点で同意できるはずです。もちろん1人くらいはあらゆる殺傷は罪だ、自分は殺傷せずに生きるという方があるかもしれませんが。日本人が食事の前に手を合わせ「いただきます」と言うのも、命をいただいているという罪の意識と感謝の表れかもしれません。自然とのつながりを確認する精神的な行為と言えるでしょう。

 次に考えなければいけないのは、その殺傷の罪にも重いものと、軽いものがあるという点です。これは思考しかできない人には受け入れがたい点かもしれません。殺傷即ち罪、罪即ちと考えがちです。冒頭の「羊を殺しているくせに」という議論が思考だということに気付いて下さい。日本で教育を受けると思考になりやすいのではないでしょうか。しかし、これは断じて正さなければいけません。外国人ときちんと議論できないだけでなく、実は簡単に権力やカリスマ的な存在にマインドコントロールされてしまうからです。

 さて、野生動物を食べることと家畜を食べること。どちらも罪なことでしょうが、どちらがより罪が重いでしょうか?第一の共通認識から外れずに、場外に出ずに考えて下さい。同じということはなく、やはり区別が必要ではないでしょうか。どこかで線を引く必要があるでしょう。その線引きに必要なのが第二の共通認識です。

 第二の共通認識:現在、人間の力は巨大です。数百年前とは比較になりません。人間のために絶滅した種は数知れず、自然環境の破壊には歯止めが利きません。過去はこうであったとか、伝統的にどうであったとかいう議論も置いておきましょう。問題は今現在です。地球の存続可能性を考えることはこの時代に生きる者の義務です。この認識を踏まえると、野生動物より家畜を食べる方が罪としては軽いのではないか、ということになるでしょう。地球の存続可能性という尺度で、ここまではやむを得ない罪、ここからは犯してはいけない罪、と判断していく知恵を持ち、それを良識として共有していくことが必要なのです。

 さて、ようやく捕鯨問題です。調査捕鯨は欺瞞だとか、暴力的な抗議運動、マスコミの偏向報道、政治利用などなど様々な問題がありますが、上記の共通認識を踏まえれば、真摯に問題の核心に迫っていくことができるように思います。思考だけは禁物です。「~しかない」とか、「~は傲慢だ」というような断定的で歯切れの良い議論は一般の人々を誘導するには効果的ですが、思考であることが多いのです。核心は白黒がつけにくいグレーの部分での議論になり、それは忍耐を要するものになることでしょう。皮肉な態度や感情論、揚げ足取りのような議論もやめましょう。卑怯な場外乱闘はやめていただきたい。

 以上が私の提言の要点です。独特の意見というのではなく、常識的な意見だと思いますが、政府の正式見解などもこうした視点で点検してみるといいでしょう。オーストラリアで生活していると、酒の席でまで鯨論争に引き込まれ、不快な意見を聞くことになるので、我慢できず書いてしまいました。個人的な意見もありますが、ここでは控えます。以下は若干の補足です。

 今現在でも野生動物を食べることが即ちではありません。鯨を食べること即ちではないでしょう。ただ、存続可能なのか、という点が問題の核心なのです。存続可能だというのであれば、それをどう科学的に証明するか。どうやら現在の人間の知恵では解答は無いようです。鯨の中には絶滅に瀕していない種があると日本の科学者が調査結果を出しても、方法論が非科学的と相手にされないということもあるようです。これも腹の立つ、感情的になりかねない点でしょう。鯨の年齢を測るには耳あかを調べる「しかない」、そのためには鯨を多数殺す「しかない」という議論も聞いたことがあります。ところが日本以外の科学者はそんなことはないと反論します。そこで腹を立てのでなく、忍耐強く、共通の方法論的認識に基づいてグレーの部分での議論を重ねていくしかないでしょう。

 国益にならないのだから いっそのこと捕鯨などやめたらどうだ、という意見も出てくるでしょう。案外,日本はこんな路線をとるかもしれません。外国との軋轢が生じ、国辱だなどという運動が国内に起こって、あっさり方針を変えるたということはいくつか歴史に例がありますから。

 もちろん捕鯨論争で最重要なのは日本政府や日本のマスコミの対応です。日本は比較的世論が政治に反映しにくい部分がありますし(もちろんこれも比較的ということ。民意を無視し、企業の意向だけを優先するひどい独裁国家が存在することは承知していますが)、政府やマスコミの見解を鵜呑みにする国民も少なくない。そうした現状にも拘らず、この問題で、新しい、世界に通用する対応ができないものでしょうか。日本の叡智を示すことができないものでしょうか。原発事故への対応を見るとあまり期待はできそうにありませんが。

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Shoso Shimbo

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