華道家 新保逍滄

2017年4月27日

造花でいけ花


造花で生け花を、というリクエスト。
プロですから、リクエストがあれば何でも応じます。
初めての試みです。

造花の質がいいのに感心しました。
しかし、これが生け花と言えるのかどうか。
生け花にはいろいろな定義がありますが。

例えば、花、水、器の3要素があって成り立つのが生け花だという定義からすれば、
水がないわけです。いけ花とは言えないでしょう。

死んでいる花(つまり切り花)を生かすから、いけ花というのだ、という定義(これは私の定義ですが。詳細は「21世紀的いけ花考」参照)からすると、そういう側面はありそうですね。造花という死んでいる花に、手を加えることで生命を宿らせているということが成立しているならば、まあ、いけ花かなとも言えそうです。

2017年4月25日

21世紀的いけ花考 第57回




 日本文化の本質は禅だとして説明するとウケがいいですね。分かり易いのです。禅にはすぐれた解説書、入門書がたくさんあります。「そうだと思ったんだよ」という反応になり易い。それで日本文化が分かった気になるわけです。しかし、少し考えると疑問点がたくさん出てきます。

1、禅宗は日本仏教の中で必ずしも大勢力ではない。日本の仏教で最大数の信徒を有するのはおそらく浄土真宗でしょう。日蓮宗系も大勢力です。なのになぜ禅が日本文化の代表のように言われるのか?

2、いけ花も禅と関連させて語られることが多いですね。鎌倉時代に成立した臨済、曹洞を主要なものとする禅が、室町期に成立し、今日にまで伝わる日本的な文化、茶、いけ花、能などに影響を与えた、と。日本中世に権力を握った武士階級で禅が流行ったということでしょう。

 ところが、日本国内におけるいけ花の最大流派は池坊。池坊は禅宗ではなく、天台宗。禅も天台仏教に含まれるという面はありますが。この辺りの問題は、私の独断的「いけ花における二極構造論」に関連していますが、それは別の機会に。ともかくいけ花は禅文化と言い切るのは証拠不十分では?

3、メルボルンの中国の禅寺を見て驚いたことがあります。中国の禅寺は実物を見たことがないので、間違っているかもしれないですが、私の第一印象は「美意識が違う」。清浄さ、侘び、簡素さといったいわゆる禅的なものが感じられないのです。もちろん個人的な印象でしかないですが。禅が日本的美意識に結びつくと言い切っていいものか?では、私の言う禅的な美意識とはどこにあるのか?日本の禅寺を除けば、最も顕著なのは神社です。日本の禅寺の清浄さは禅というより神道の影響ではないでしょうか?

 そろそろ字数制限ですので、今回はここら辺で。次回は日本文化(いけ花を含めて)は禅文化だという一般的な見解に対する素朴な疑問をもう少し積み重ねていきます。そして、一つの素人の仮説にたどり着こうと思います。 

 今月の作品はフィッツロイのちょっとさんへ生けたもの。とても人気だと連絡をいただきました。商業花ではシンプルなデザインを生かしたほうがいい場合が多いようです。

  4月には環境芸術といけ花について日本の大学や国際学会で話す予定です。また、29日にはサウス・メルボルンのMade in Japanでいけ花デモンストレーションを行う予定です。5月27日にはちょっとでワークショップも開催予定。ご都合がつきましたら是非お越し下さい。

2017年4月23日

一日一華:庭の草花で


水引とブーゲンビリア。
どちらも我が家の庭から採ったもの。

2年ぶりの日本滞在は、3週間ほどでした。
国際会議で、また日本のある私立大学で生け花について話してきました。
どちらも英語でしたが、日本の大学生には、少々、辛かったでしょうか。
初めての大学でしたから、不案内。
多数の方からお世話になりつつ、学内をうろうろしてしまいましたが、
学生も、図書館スタッフもとても親切で助かりました。

日本人学生には、英語だけでは難しいかなということで
時折、日本語で雑談を挟みました。
なぜ、私に大小、様々な仕事が次々来るのか?
それは私が締め切り期限を破ったことがないからなんです、と。
お金を頂いて、期限を決めたら、
私は逃げません。徹夜でもなんでもしてやり遂げます。
ところが、お金をいただいていながら、
ああだ、こうだと理由をつけて、仕事を未完で放り出したり、
逃げ出すアーティストも多いのだと言うと、

そんな無責任なこと、自分だってしないさ。
当たり前じゃないか。やり遂げるさ。
という顔の学生たち。
ほぼ全員がそうでした。

でも、数十人の学生のなかには、
おそらく何人かは逃げ出す人が出てくるのではないでしょうか。

芸術制作過程は絶壁と向き合うような時間が続くわけで、
なかなか苦しいのです。
本当に逃げたくます。

困難に向き合うか、逃げるか。
それは実はいろいろな場面で、私たちは日々経験しているのです。

例えば、私の講義に出席した学生にとっては、
私の英語の講義にかじりついて、ついてくるか、
もしかすると専攻に直接関係ないのかもしれませんが、
何か学べることがあるかもしれない、と頑張るか。
あるいは、「難しい」と居眠りしたり、おしゃべりしたり。
実際、ちらほらそんな学生が見受けられましたが。
そういう人は、つまり、逃げているわけです。
もちろん、あれやこれや理由や言い訳があるのは承知しています。
私の話がつまらんということも当然あるでしょう。
しかし、そういう人が芸術制作現場のような厳しい現実に直面した場合、やはり逃げ出すのではないでしょうか。私にはそう思えます。

もちろん、逃げたからといって、
それで人生が終わるわけではないでしょう。
人生は続きます。

ただ、逃げるか逃げないかという日々の決断の集積。
それは、おそらく全く別の場所へ私たちを導くことになるでしょう。

Shoso Shimbo

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